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September 26, 2006

第70号:インテリジェンス能力の欠如した「サヨク」の、本当の落日がきた

 先週から以下のような説が、安倍新政権に反対の立場をとる人たちの間で流布されている。それは政治評論家森田実のHPから始まったようで、人気ブログ「きっこの日記」に載ってから、メールでも伝わるようになり、さらに速度は増幅した。私のところにも、ある憲法学者からの同報メールでこのurlがやってきた。
http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02758.HTML

……アメリカのネオコン系シンクタンクが安倍、元民主党党首の前原誠司、防衛庁、外務省の高官、公使経験者の親アメリカの民間人を集めて会議を開いた。そこで米側から指示されたのが、「次の2年間の日本操縦プラン」であり、そのための内閣の人選だ。防衛庁長官に前原を据え、前原は民主党を割るかも知れない。
 今回の狙いは、「日本を中国にぶつけて少しずつ戦争に引きずり込むスケジュール」を作ることになる。アメリカは景気浮揚策として戦争がしたい。だから2001年の「9.11」の米中枢テロ事件を自ら仕掛け、アフガニスタン爆撃、イラク戦争を行った。次はどこにしようかなって感覚です。そうすると、日本はもう60年も戦争をさせていないから、「そろそろいいんじゃないか」。そこで日本国内に、反中国プロパガンダが行われている。……

 「きっこの日記」では、日本国内に、死者をともなうテロを米軍と自衛隊で自演し、北朝鮮によるものとして国民感情を煽り、日本を準戦時体制にする計画がある、と、よりセンセーショナルな情報が付け加えられている。

 本当だろうか。

 森田実のHPの内容は、全面的に船井幸雄・副島隆彦『昭和史からの警告−戦争への道を阻(はば)め』という本の孫引きになっている。そこに森田の論評は入っていない。引用されている記述を読むと、副島も会議の内容までつかんでいない。核心部分はこうである。
〈話し合われた具体的な内容までは、私のところにも十分には届きませんが、日本を中国にぶつけて少しずつ戦争に引きずり込むスケジュールが、ここでも話し合われたことでしょう。〉アメリカが戦争をしたいというくだりは〈私がいつも言うように、〉と持論を述べているだけである。これを受けた森田の記述も、〈前原が防衛庁長官にという噂が〉〈こうした日本の政治の配置を指揮しているのは米国政府であろう。〉と推測しかしていない。

 つまり、ファクトは入っていない。
 ここから何らかの信憑性ある情報をつかむのはムリである。

 この説をどう解釈するのか? 情報を受け取った人間のインテリジェンス能力が問われるということになる。

 この情報に触れて事を起こそうとするなら、すべきことは情報を分析し、その結果を事実の裏付けをもって伝え、それに対抗する戦略を練り、組織化をはかるということではないのか。
 それができる、すべき立場にある人間が、情報の「垂れ流し」しかしていない。「北朝鮮の脅威をあおるのは間違いだ」とする人たちが、自らが批判する、まったく同じことをしているのだ。これでは安倍政権とその流れにカウンターを当てるのはムリである。

 先に紹介した憲法学者のHPには、こう書いてある。
 〈安倍は首相になるいま、1年前のこの会合で何を話し合ったのかを明らかにする義務があるだろう。〉
 いや、これだけでは説明する義務はないと思うよ。

 「インテリジェンス能力」。言い換えれば、「自分で情報を得、整理し分析し、その結果を表現する」というあたりまえの訓練ができていない。正確に言えば教えられていない。「市民記者」がかかえる問題も、つまるところそこにあるのではないかと私は思う。

 たぶん、続く。

September 19, 2006

第69号:おお、友よ。吉牛復活せり。

Akiba
*秋葉原の中央通りに面した店では、並ぶ客が歩道にとぐろを巻いていた。

 所用で都バスに乗って秋葉原に出かけたら、中央通りの吉野家の前に列ができていた。
 アメリカ産牛肉の輸入が再開されたため、100万食限定で牛丼が復活したのだ。

 当方、大学受験で出てきた東京で父親に教わって以来22年喰ってるけど、ソウルフードではない。
 輸入中止の直前には牛丼の値下げ「チキンレース」があって、どこも味を落として闘っていた。輸入中止の間に、われわれは、安ければ何だっていいってもんじゃないということを学んだはずだ。
 そして、なにしろ秋葉原なので、行列しながら「列最後尾」のプラカードを掲げる警備員のお姉さんに牛丼への思いのたけを熱くぶちまける青年がいたりして、彼の後ろにつくのもなんだかな、と白けて見ていたのだ。

 でも、最後に吉野屋に行ったときのことを思い出した。
 2年半ぐらい前のことだ。米国産牛肉の輸入が止まって、手に入れられるだけの肉を吉野家が必死で出していた最後の頃、土砂降りの真夜中、環七の店で、どうなってるのか実際に食べてみたのだ。
 Sと一緒だった。
 肉はおそらく和牛で、いまだかつてないほどいい肉で分厚かった。しかし、タレが全く肉に合わなかった。あの味は、ある程度以上の肉質には合わないのだろう。
 「俺たちの知っている吉野家の牛丼はもうない」
 二人の結論だった。

 そのSは、もうこの世にいない。

 中央通りを南下して神田に出ると、やはり吉野家で牛丼を出していた。このあたりオフィス街だから休日はほとんど人がいないが、それでも警備員が店頭に立って「2階席もあります」と言っている。
 暴動でも心配なのだろうか。
 すぐ出てきた「並」は、かつてのものと寸分違わぬ眺めだった。2年半ぶりに紅ショウガを載せて、食べてみる。味、タレのからみ具合、タマネギの歯ごたえと甘み。それは昔どおりだった。しかし、肉質だけは以前よりもよい。

 Sよ。今度は間違いなく吉牛が戻ってきたよ。

 そう報告する私の目元が、ほんのりと熱くなってきた。
 泣いているのではない。
 ダイエット中にまとまったものを喰うと、そうなるだけの話だ。

Ricebool
*外見は、かつての「アレ」と全く変わらない。牛丼を出している間は他のメニューはストップ。以前の牛丼単品の業態に戻していいかどうかのマーケティングかも知れない。右手前にあるのはノベルティの手ぬぐい。「次回は10月1日から」と書かれている。

September 08, 2006

第68号-1:鳥越俊太郎オーマイニュース編集長に「引退勧告」を突きつけた、ニート世代の「わが闘争」

Note


「(鳥越さんは)若い者に任せて、引退されてはいかがですか」

 9月2日に行われたシンポジウム「ブロガー×オーマイニュース 『市民メディアの可能性』」。パネラーの鳥越俊太郎オーマイニュース編集長らと会場との質疑応答の中で突然、若い参加者からこんな意見が飛び出した。

 この発言に、会場はどよめいた。
 発言した「彼」のすぐ前の席に座っていた私も、思わず詰まった笑い声——非難のニュアンスがこもったような——が一瞬上がってくるのを止めることができなかった。

 取材のため、このやりとり後の休憩で鳥越氏は席を立ったが、休憩後の会場では、司会の藤代裕之氏(ガ島通信)やパネラーのいちる氏が、鳥越氏のジャーナリストとしての実績に対しては尊敬の念を持つべきだと発言した。

 私もそう思う。大変妥当な意見だし妥当な仕切りだ。

 しかしこの場のやりとりは小さな波紋を呼んだ。オーマイニュースに載ったシンポジウム紹介記事のタイトルは「鳥越編集長、引退の危機!?」。自分のところの話なのに、プロレス記事みたいに面白おかしく突き放した、ちょっとおっちょこちょいな見出しの付け方だ。また、いくつかのブログでもこの発言が取り上げられている。総じて「ちょっと礼を失しているのではないか」という論調だった。
 しかし、パネラーとして参加した山口浩氏がブログ「H-Yamaguchi.net」にアップしているMP3ファイル(Part1-3に該当部分が収録されている)を改めて聞いてみると、どよめきとともに、ぱらぱらと拍手も聞こえる。そこには、「彼」の発した鳥越編集長≒オーマイニュース編集部の「成り立ち」への不信感や異議申し立てを支持するようなニュアンスをもつ人たちの存在があることが感じられる。

 私は、「彼」が何を考えているのかを知りたいと思った。今後のオーマイニュースや、ブログジャーナリズム(というものがあるとしたら)のあり方、ひいてはネットの言論状況や「炎上」の構造など、インターネットのコミュニケーションで起きている問題を解く補助線になるのではないか。さいわい、「彼」=武田さん(仮名)に協力していただき、意見を交わすことができた。
(つづく)

第68号-2:団塊世代ジャーナリストは若者の登場機会を奪った

■「就職氷河期世代」の怨嗟(えんさ)
 武田さんはフリーのライター。会社勤務を経て、週刊誌で紹介記事などを書いている。1年半のキャリアを積んで企画モノの仕事も入り、ライターとしてのステップアップの時期である。
「私は27歳で、就職氷河期世代、ニート世代です。優れた同級生が就職できないでいる状況を目の当たりにしています。団塊世代の雇用を確保するために、若者はニートなりフリーターなりにならざるを得ない状況があります。団塊世代が日本をだめにしたのに」

 武田さんのコメントはいきなりとんがっていた。

 彼らの大卒就職活動期は2000〜2001年頃。厚生労働省や文部科学省の統計を見ると、就職内定率のグラフは谷底となっている。フリーターが急増したとされるのもこの時期だ。就職活動で苦労させられ、機会不平等で「割を食っている」という思いが、「若い世代が抑圧されている」という反感に育った。
「言うまでもなく、鳥越さんは老人です。優れた仕事を残してきたことは認めざるを得ませんが、リスペクトさせていただくだけではなく、私たちも優れた仕事をしたいのです。その上、年長者の存在が障壁になっているとしたら、優れたジャーナリストと言えども迷惑です。既存メディアでも、それが紙面のつまらなさにつながっているのではと考えています。若者のチャンスを奪っていることが私には許せない。俺たちにやらせてくれ! と訴えたいのです。オーマイニュースは、団塊のためのメディアなのでしょうか?」

■「オーマイニュースという場」のマネジメントが急務
 このような激しい思いを抱いた武田さんは、シンポジウムでこう質問した。
「ネット感覚でホームページが作られていない。既存メディア的感覚で作っているのではないか。ライブドアPJやJANJANなど、先行者の評価をしているのか」
 鳥越編集長はこう答えた。
「ネット感覚でやってないという批判はそのとおり。編集とうまい具合に融合しなければならない。単なるお座敷の提供ではなく、どんなお客さんに来て欲しいかという意志が必要だと思う。ライブドア、JANJANは見たことがないので知りません」
 この「率直な」答えに、場内はややざわめいた。
 武田さんはいう。
「鳥越さんがネットについてさほど詳しくないと告白したことに、オーマイニュースのスタッフは危機感を覚えた方がいいと思います。スタッフたちもネットの状況をあまり知らないようで、編集を新聞感覚でやっていて、『読ませてやっている』という意識が強い。インターネット的な『対話』メディアから最も遠くなってしまう。それで、はたして読者に受け容れられるでしょうか」
 オーマイニュースにおける市民記者の役割について、鳥越氏のモデルは市民記者の体験(=小さなファクト)の積み上げによる問題意識の発掘による調査報道であり、平野日出木編集次長は「輪転機」モデルをとなえ、よい記事もそうでない記事も伝えていくもの、と「淘汰もあり」モデルをイメージしていることは第67号で報告したとおりだ。発足したばかりのメディアであり、試行錯誤や見解の不統一は仕方がないが、「準備ブログ」の頃から批判の多かった、この「オーマイニュースという場の枠組」について、今ひとつ編集部の方向性が見えない。
 各人のイメージするモデルが全くばらばらであったことで、シンポジウムでも、マスメディアに比肩するファクトを市民記者が提供することが果たしてできるのか、ファクトがとれないならオピニオンだけでいいのか、あるいは市民記者がファクトとオピニオンをどのようにバランスさせることができるのか、編集部はどのようにかかわるべきかなど、「記事のマネジメント」については、議論の土俵もできないままほとんど詰めることができなかった。しかし、ファクトが提出され、コメンターによって解釈や補強するファクト、反対のファクトなどが提出されて、だんだん世界観が共有されていくネット言論的モデル——そこに若干の「煽り」や「叩き」のノイズが混入すればそいつは「2ちゃんねる」モデル——は考慮されておらず、武田さんのいらだちもそのあたりにあるものと思われる。ネット上の議論の特性が理解されずに、強引に「場」を切り盛りしていこうとすれば、
「既得権を持っている世代に、『奪われた』感じが、現在の若い右派的な若者の年長世代左派批判への根底にあるのではないでしょうか」……という感情に火がつくことになるのだろうか。これが、「炎上」の理由の一端なのかも知れない。
 ただし、この記事を書いている9月8日現在、オーマイニュースのコメント欄はひところよりは落ち着きを見せており、「炎上」することが多かった、記者のイデオロギーが前面に出ている記事であっても、事実や違った観点を指摘する冷静なコメントが増えてきた。これをいい方向と見るか、あるいは「ブログ時評」63号のいうとおり、「飽きられた」と見るかは、まだ予断を許さない。
(つづく)

第68号-3:「氷河期世代」の反撃が始まる!?

■鳥越編集長のセルフマネジメント
 武田さんと鳥越編集長のやりとりに戻ろう。
 武田さんの前発言者の意見に、「驚いた。ブロガーの間でも意見の違いがあるんだ」と素直に感心して見せ、武田さんに「鳥越さん、ちょっとネット弱いと思うんですけど」とジャブを浴びせられた鳥越編集長は、「弱くないよ」と返した。
「若い者に任せてはいかがでしょうか」という武田さんの二の矢には、
「編集部が引退したほうがいいという意見であれば引退します。僕はガンの再発をかかえていて、(オーマイニュースに参加するにあたり)家族も友人もみんなやめろという意見でしたが、新しいことに対して、好奇心の虫がうずくというか。私は、実務はほとんど平野(編集次長)さんたちに任せていて、私の名前であればインタビューもしやすいだろうし、メディアの取材に登場するなど、オーマイニュースが軌道に乗るまでの広告塔のような存在なんですよ。ただ、僕は(実際に)やってみて面白いなと思っています。(このシンポジウムのように)人がこうやって集まるのは、インターネットのおもしろさということで、なかなか引退はできないな(笑)」
 と、うまくまとめている。これを率直と評価するか、老獪とみるかは意見が分かれるかも知れない。
 鳥越氏は、自分が「つなぎ」であり、「人寄せパンダ」であることを十分自覚している。鳥越氏の発言やネット理解についてさまざまな情報があるが、深く追求して一喜一憂することに、私はあまり意味はないだろうと思う。鳥越氏のこのような自己規定は、私は大いにありうると思う。鳥越氏を内部と外部に向けてどのように「使っていくか」は、実務を担う編集幹部のマネジメント次第だろう。鳥越氏を「ボス」に組織の求心力や外部との関係でピンチになったときに出馬を仰ぎ、実務は若い実務者でがっちり固めるモデルがいいのではないか。両者がシナジー効果を発揮できるコンテンツが早く生まれたらよいと思う。

■「氷河期世代」の闘いが始まる
 では、武田さんはこれからどう「闘っていく」つもりなのか?
「私たち氷河期世代が浮かばれるためには、ネット戦線で勝つことでしょう。私だけが浮かばれればいいのではなく、私たちの世代全体が浮かび上がらなければダメなのです。団塊利権は世代利権です。ネットのフラットな空間において、ガチンコで闘えば勝てると信じたいですね。譲ってくれないのなら、こちらから奪うしかないでしょう」
 この記事を書いている、私「ぽいんと尺」は39歳。バブル期の新人類世代である。団塊世代のことも、若い世代のこともわかると言いたいところだが、必要なしと言われたら、それで終わり。武田さんが、早く団塊の世代やわれわれを倒しにやってくることを期待したい。

*この記事は、武田さんと私がシンポジウムのあと直接交わした会話と、メール三往復で構成しました。ご協力いただいた武田さんに感謝します。武田さん、びしびしコメントで批判してね。
*シンポジウムでの発言は、基本的に取材メモに基づいていますが、パネラーである山口浩さんのブログ「H-Yamaguchi.net」
http://www.h-yamaguchi.net/2006/09/post_b49f.html
の音声で確認することができました。生の音声を公表する意義の大きさに改めて気づきました。ありがとうございました。

September 03, 2006

第67号:オーマイニュースの明日はどっちだ!? シンポジウム報告

Sympo
パネルにはオーマイニュース側とブロガーが参加した


 シンポジウム「ブロガー×オーマイニュース 『市民メディアの可能性』」が、早稲田大学で行われた。詳しい発言内容はオーマイニュースHPに掲載されているので、ここでは私が関心を持ったことをメモとして記すことにする。

■オーマイニュースのダイナミズムとは
 オーマイニュースとはいかなるメディアなのか。
 オーマイニュース編集委員で、「準備ブログ」で、編集部のあり方に疑念を示した佐々木俊尚氏は、オーマイニュース編集部は、活字メディアスタイルの「編集をがっちり行う」モデルであり、2ちゃんねるに代表される、「場」を提供し、そこに人がよってたかって集まってくる「編集しない媒体」との衝突が起こっているのではないかと問題提起し、編集部でも議論が起こっていると明かした。
 オーマイニュース編集長の鳥越俊太郎氏は、その理想とするモデルを、市民記者Aが身近な体験(たとえば、医療にまつわる問題)を記事にしてアップし、同じような体験をした市民記者Bが記事にする。その集積を編集者または市民記者みずからが問題意識としてテーマ化し、さらに突っ込んだ調査報道を行う、とした。その発端と一般化、深化に市民記者を関与させようというもので、現在の新聞で考えると読者投稿から調査報道に発展する、あるいは新聞社に寄せられた情報をもとに調査報道が行われるというイメージになるだろう。発端以外はプロの手で行うものである。
 佐々木氏は、記事の質をうんぬんするよりも、とにかく「荒削りなもの」を「場」に出して、それをもんでいくダイナミズムを大切にすべきというモデルを提示している。ブロガーのいちる氏による、ネットの特性を考えると、記事投稿の敷居を高くすべきではなく、思いつきを面白く、インスタントに大量に出すべき、との発言も同じモデルを示唆しているといえよう。
 鳥越モデルは、黒田清氏が読売新聞大阪社会部の部長時代に社会面に毎日作っていたコラム「窓」——投稿者の投書を紹介しながら問題意識を拾い、場合によっては調査報道に発展する——に似た発想ではないだろうか。鳥越氏のモデルは、プロの編集者がしっかり関与するという性格が強いが、鳥越氏がネットの議論の生成状況についてあまり詳しくないため、活字メディア的な発想寄りであるということを考慮すれば、佐々木氏とそれほど考えは違わないのではないかと思われる。

■コメント欄で読者との対話は可能か
 現在、オーマイニュースにはコメント欄があり、「オピニオン会員」として登録した人が書き込めるようになっている。しかし、イデオロギーが絡む記事を中心に、罵詈雑言に近いコメントが集中する「炎上」状態が続いている。
 オーマイニュースの「炎上」の分布具合を見ていると面白い。日中・日韓関係やイデオロギーがからむ問題について「炎上」が認められ、たとえばイスラエル国内からのルポにはほとんどコメントがついていない。ある意味で、読者の関心の分布をよく示している。
 編集幹部のひとりに直接聞いてみた。もともとイメージされていたコメントのありかたとは、「書き手を励ます、エンパワメントする」ものなのだという。「炎上」の状況をどう考えるか問うたところ、「炎上しやすいジャンルがあるので、前面に出すかどうか再検討したい」との返答を得た。これは、マーケティング的な考え方であるといえよう。
 シンポジウムの中で会場から出た意見に、「トラックバックを作ることを検討しないのか」というものがあった。オーマイニュースの方針として確答はなかったが、十分検討に値する方法であると思う。
 トラックバックはブログを持っている人しかすることができない。その意味で、全ての人たちに開かれているわけではない。しかし、トラックバックでは自らのブログのエントリを立ち上げることになり、言論の責任と質は、ブログ主の責任となることが読者にはっきり見える。その点で、トラックバックの実装が行われれば、対話の質が向上することは間違いないだろう。
 また、「炎上」をどうとらえるかというのも見方次第だ。
 オーマイニュース編集次長の平野日出木氏は、オーマイニュースの役割について、完成された書き手が完成された記事を書くだけでなく、さまざまな人が言論を世の中に発表するという、「回転するプラットフォーム」を提供するものだとしている。いわば「輪転機」だというのだ。さまざまな質の記事があり、輪転機を通ったからといって、すべての記事が残るとは限らない、それでいいというものだ。なるほど、ひとつの見識である。
 だとすれば、コメント欄の「炎上」も「回転している」と考えればいいわけで、それほど心配すべきことではないということになる。コメントをどう活かすかという発想をし、働きかけを続けていけばよいのではないか。その方法については、佐々木氏の「場としてのダイナミズムを大切にする」アプローチが参考になろう。

■どうなる? オーマイニュース
 シンポジウムの参加者全員に、「オーマイニュースは成功するか?」と質問が投げかけられたが、「成功する」と答えた参加者は少なかった。正直言って私にもわからない。しかし、編集部が何を考え、どう悩んでいるかは少し見えてきたような気がする。私も前のエントリでオーマイニュースに苦言を呈しているが、発足当初のどたばたと評価するのが妥当であろう。
 うまくやればいけるんじゃないか、との認識を新たにしたシンポジウムであった。

 ボランティアベースで行われたシンポジウムのスタッフの皆さんに感謝します。

Torigoe
鳥越俊太郎氏のオーマイニュースにかける心意気には、聴衆の心に響くものがあった

September 01, 2006

第66号:感情の「顔マーク」を選ばないとオーマイニュースにコメントできない件について

Ohmy
「オピニオン会員」に登録すると現れる、オーマイニュースコメント欄

 8月28日、オーマイニュースが正式に発足した。
http://www.ohmynews.co.jp/
 「市民みんなが記者だ」を旗印に、公募して登録した「市民記者」の記事を、編集局がチェックしてサイトで発表するシステムだ。
 それだけでは新聞社ニュースサイトと同じ一方通行なので、読者がコメントを投稿できるようになっている。おそらく「荒らし」「炎上」対策なのであろう、コメンターは登録制で、IDとパスワードを入力してログインして、800字以内でコメントする仕組みになっている。

 ところが、コメントとともに感情を表す「顔マーク」を選択しないと、投稿できないようになっている。その顔マークは「喜・怒・哀・楽・驚き・呆れ」の6種類しかない。

 ニュースの読後感というのは、これしかないのだろうか。
 また、記事の書き方でニュースそのものへの感情と、ニュースの送り手への感情が分かれることがあるが、これではそのことがうまく伝えられない。

 ニュースの読み方は、こんな一面的なものではないだろう。読み手は、事実を知り、対立する意見や感情を読み解きながら、そのニュースについての意見を組み立てていくのではないか。
 コメンターに脊髄反射的な定型的感情の表示を強いるこのやり方は、オーマイ日本版編集長の鳥越俊太郎氏がさまざまなインタビューで語っている、「2ちゃん的文化の否定」とは逆を行っているし、逆に「炎上」体質を奨励しているようにも見えるのだがどうだろうか。

 おそらくはお遊びのつもりだろうが、オーマイニュース日本版編集部の見識が問われている、と思う。

 ちなみにオーマイニュース国際版では、コメント欄のマークは親指を立てるか下げるかの2種類しかなく、記事が「よかった」「悪かった」という評価なのだろう。こちらのほうがよほどすっきりしている。
Ohmyint
インターナショナル版のコメント欄

第65号:ガソリン最安値探訪覚え書き

 ガソリンが高い。検索でこのテーマで訪れてくれる人が多いので、情報をフォロー。

 最近、北関東を中心に車で移動している。
 東北道佐野インターに寄ったら、給油所の137円のガソリンに20台ぐらいの行列ができていた。
 おそらく今日から値上げで列はなくなっていると思われるが、このあたりを含む栃木県南部地方が関東地方のガソリン最安値地帯になっていると思われる。

 有人スタンドで136〜140円、セルフスタンドで134円というのが最安値のようだ。
 セルフ134円は8月21日に栃木市箱森町の東北道栃木インター近くのENEOSスタンドで売られていた。しかし29日には136円に値上げ。この日には、国道4号線の東北線雀宮駅近くのENEOSスタンドで134円で売られているのを見た。

 しかし月が変わったので、役に立たない情報になっているかも知れない。

第64号:オンラインジャーナリズムと「炎上」についてのメモ

 いやあ、ココログのシステムが新しくなってから初めての更新です。
 今回は、明日行われるシンポジウムを見物するための覚え書きです。

■ニュース記事の書き方
(ファクト+裏付け)+論評
……(ファクト+裏付け)は、ニュース記事の最低ライン。5W1Hが入っているかどうか。裏付けは記事には書かない場合もある。

 論評の部分が「切り口」であり、記事執筆者の個性が出るところ。主にファクト情報の取捨選択や、ファクト情報から何を導き出すかという深まりで表現する。(ファクト+裏付け)の書き方で論評性を表現するという手法もある。

■従来型のメディアでは、そのスキルはどのように養われるのか
 企業に所属する新聞記者の場合は、OJTでまず警察発表モノやリリースものなどファクトが主である原稿をたくさん書き、(ファクト+裏付け)に習熟させる。デスクと呼ばれる編集者が介在し、(ファクト+裏付け)+論評の形を満たしているか、論評の角度をどうするかの判断を行う。
 フリーの雑誌記者、雑誌寄稿者の場合は基本的に自己鍛錬となるが、掲載時には編集者が介在して新聞記事と同様のチェックを行う。
 双方とも完成時には「論評」の部分は完成されたものとして出てくるのが一般的。
 記事の評価は、同僚や上司の評価、売れ行き等の読者の反応などによる。新聞・雑誌とも、読者から電話などで寄せられる個々の直接の声が真摯に反映されることは少ないと思われる。事件の進展や大きな反響がなければ、当該記事のフォローは基本的に行われない。

■オンラインジャーナリズムの特徴(その双方向性に着目して)
 即時性、機動性。
 記事執筆者の広がり、それによるテーマの広がり。以上2点の構成によってはそのまま「偏り」となる。
 ブログ形式をとる場合は、トラックバック・コメント機能により、読者との双方向性コミュニケーションが成立しうる。
 その場合、(ファクト+裏付け)+論評が検証され、論評部分について意見を異にする読者が他の見方を提供することによって、補足・裏付け・批判が行われる。
 トラックバックは「自分も関連のテーマで記事を書いた」ことをリンク機能で誘導するものである。単なるコメントづけではなく、自ブログで完結した記事が書かれる可能性が大きいため、コメント機能よりも質の高い指摘・批判が行われると評価される場合もある。

■(市民)オンラインジャーナリズムの可能性と双方向性
 職業的ジャーナリズムほど訓練と淘汰が行われないので、個人の資質に左右される面がある。
 その訓練と淘汰は、編集者が行うことになる。
 双方向メディアとした場合、読者との対話(ブログならばコメント・トラックバック)に応えることで、副次的に訓練と淘汰が行われる。また、従来型メディアと違う価値観が生まれる可能性がある。
 (一時期ライブドアPJが、記事のアクセス数のみを基準にニュース価値を決めるという方針を打ち出した。妥当性はともかく、ひとつの見識ではある)。
 ブログで多くのコメントが集中する「炎上」は、この双方向性機能を損なう。現在、双方向性をとるかどうかというメディアの判断は、この点の判断が左右していると言って差し支えないだろう。
 双方向性を謳うかぎりは、そのリスク管理が記者養成、記事執筆、編集、掲載を通じて求められる。
 双方向性を取り入れない場合は、そのメディア的特性は従来の新聞・雑誌メディアと変わるところがない。単純に記事執筆者と編集者の能力によって浮沈が左右されるメディアとなるだろう。

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