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2017年4月 7日 (金)

鉄コレ箱写真の謎④「PCCカーはなぜ普及しなかったか」

 1920年代にアメリカで始まった駆動方式の革命。わが国に波及するまで、ちょうど20年の時間が必要でした。どうしてなのでしょうか。

 アメリカ・イギリス・ドイツの電鉄技術先進国の情報は、リアルタイムで日本の電鉄会社に伝わっていたはずです。GE、WH、EE、AEGなど各国の電機品メーカーは、売り込みのためにカタログや新技術のレビュー雑誌を各電鉄会社に送っていましたので、最新技術の動向を知ることができたはずです。
 そのことを裏付ける記事を見つけました。1928(昭和3)年の雑誌『オーム』7月号、8月号に分載された論文「電鉄用高速度電動機」は、米国ウエスチングハウス社の新技術であるWN駆動の紹介が掲載されていました。筆者はウエスチングハウスのライセンス生産を行っていた三菱電機の社員工藤宗眞氏です。
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 WN駆動は、台車枠に装架したモーターの軸と、車軸の大歯車と噛み合うピニオンギア(小歯車)軸との間に可撓継手を入れることで振動による変位を吸収し、伝導ロスと騒音を少なくし、モーターの重量を枕バネの上にすることで線路への衝撃を減らした分離駆動の一種です。
Img_3337

この段階で、分離駆動の情報は日本までもたらされていたことがはっきりしました。ではなぜ普及しなかったのか。2つの理由があると考えられます。

 その第一は、わが国の技術力の水準にありました。初期の電車用機器はGEと東芝、WHと日立のライセンス契約関係で移入されていましたが、それぞれ国産化が図られ、EEは東洋電機を介して日本国内生産を行っていました。技術水準としては必ずしも高くなく、国鉄が大正の初めにGEのMシリーズをもとに制式化したCSシリーズの改良の途上であるなど、一時代前の技術の消化に取り組んでいた時代であり、また分離駆動に使われる高速電動機の絶縁技術が追いついていなかったという事情があります。

 そして第二に、当時の日本の電車が低速であり、高加減速性能をもつPCCカーのニーズがなかったことが挙げられます。
 わが国でPCCカーを導入しようと初めて動いたのは阪神電鉄であったと思われます。阪神は開業時、広軌高速電車を主張した三崎省三(のち技師長)をアメリカに視察に出し、インターアーバンの理想型を探らせるという先見性を持っていました。後に社長となる野田誠三氏は阪神タイガースの球団社長として知られ、野球殿堂入りもしていますが、実は技術者出身であり、1935(昭和10)年ごろのアメリカ視察でPCCカーを検討しています。
 その成果は実際に活かされることはありませんでしたが、1937年に登場した阪神国道線の「金魚鉢」70型には、東芝製の油圧制御による間接制御器が導入されており、これが研究成果の片鱗だったのかも知れません。

 しかし、この年日中戦争が起こり、敵性国家であるアメリカや欧米諸国との技術情報の交換が途絶し、わが国の電鉄技術は停滞期に入ります。ところが太平洋戦争中、ひょっくりと分離駆動が顔を出してくるのです。いったい、どういうことなのでしょうか。(つづく)


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コメント

さすが引っ張りますね~
阪神・京阪・関東の京濱あたりはアメリカの電鉄技術を勉強したようです。PCCや高速電車のWNドライブが日本に入らなかったのはお説の通りでしょう、阪神は戦前から高加減速の電車が必要なダイヤで運転してましたから関心は高かったでしょうね。
戦時中の分離駆動話も楽しみです。

毎度極北ブログをご愛読ありがとうございます。あと2回で読者2.2人ぐらいのこのシリーズを完結させ、「東武快速ものがたり」を書く所存であります。

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