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2017年4月

2017年4月23日 (日)

鉄コレ箱写真の謎⑥(終)戦後日本の技術力と高性能車の夜明け

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*わが国で最初の量産直角カルダン車としてデビューした5720形。東芝TT-3形台車は、不調のためクハに振り替えられて、高崎線吹上駅近くのレストラン「マスタード・シード」に現存しています。

 長いこと引っ張ってきたこのシリーズも、いよいよ最終回です。
 一連のエントリの本来のテーマである、「直角カルダンで活躍した東武5720型が、なぜイコライザ台車を履いているのか」、その謎を解くカギが、この「第三の理由」に関係してくるのです。

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*わが国初の直角カルダン車として1953(昭和28)年にデビューしたはずの5720形が、なぜつりかけ台車を履いている写真が残っているのか?というのがテーマでした。

 『鉄道ピクトリアル』2008年1月号増刊「東武鉄道特集」では、西新井工場に長く勤務された諏訪部直方さんの「西新井工場と私の昔語り」が掲載されています。諏訪部さんは駆動系の保守の仕事を担当され、入社直後の戦後の混乱期、戦中・戦後の物資不足のため絶縁不良でフラシオーバーが続出したモーター巻線の巻き替えの苦労など、興味深い話が満載なのですが、5720型の直角カルダンの保守に手を焼いたエピソードも述べられています。

「これがなかなかの難物で、プロペラ軸ニードル軸受破損による脱落、まがり歯かさ歯車の浸炭層剥離、MMのフラッシュオーバなどで手を焼きました。特急車でありダイヤに穴を開けられないので修繕に出していた部品の一部を転用するために、休日夜、府中工場までタクシーを飛ばして持ち帰り、徹夜で作業したこともありました。その後、汽車会社の直角カルダンKS105を58形で使用しましたがこれもうまくいかず、結局ものにならなかったのは残念なことでした」

 わが国の工業技術は戦争の停滞もあって欧米諸国から大きく立ち遅れていました。鋼の生産技術においても、鉄の精錬・焼き入れ技術が十分でなく、大きな負荷がかかると割れるなどの不具合が多発していました。スパイラルギア(ねじり傘歯車)の歯を切り出す国産の歯切り盤の精度も低く、5720型の直角カルダンは、この両方の理由が相まって故障が続発したものと思われます。この頃はモーターの絶縁不良も根絶できず、1951(昭和26)年に登場したつりかけの5700型に装備されていた電気ブレーキは、試運転でフラシオーバーを続出させ、結局使われないことになりました。1954年に製造された日光軌道線用連接車200型にも、急勾配を下ることから電気ブレーキが装備されていましたが、こちらも不具合で実用にはなりませんでした。

 名鉄の技術者として7000型「パノラマカー」の開発を統括し、大井川鉄道に転じて蒸気機関車の動態保存を実現した白井昭さんは、当時の生産技術について、こう証言します。「直角カルダンやクレーン用の傘歯車など大きな負荷のかかる歯車は、まだ日本では作れる段階になかった。国産化が可能になったのは昭和30年代に入ってからのこと」。

 お守りをする立場の諏訪部さんが苦労を重ねられた直角カルダンの故障は、まさに推進軸や歯車に使われた鋼の強度が、必要とされたトルクに不足であったことがもたらしたものだったのです。

 国産技術による直角カルダンは。5720形の翌年、1954年に登場した東急5000型で実用化に成功したと評価できるでしょう。阪神は、1958年に登場したジェットカー5000型で、シカゴ高架鉄道「L」用のPCCカー6000系の要素を取り入れますが、1956年から始まった在来車を使った試験には、ウエスチングハウス製のねじり傘歯車を使っています。

 それでは、「箱写真」種明かしを始めましょう。
 故障が続発した5720型ですが、諏訪部さんが指摘したとおり、花形の特急車両が故障のたびに運用離脱というわけにいかず、分解整備が必要な故障が起こるたび、につりかけ式のイコライザ台車に履き替えが行われました。その出どころは、1951年に登場したクハ550型を電装したモハ5324と5325です。この2両は、5720型登場と同じく1953年に、東洋電機製の直角カルダン機構を装備した汽車会社製のKS-105台車と換装しており、その際に捻出されたKS33L台車です(花上嘉成「5700系電車」東武電車研究会会誌『と〜ぶ』7号)。モーターも5700型と同じTDK-528、歯車比も3.44であり、つりかけの5700系と性能を揃えることができたのです。

 ちなみに、5800形に導入された汽車会社の直角カルダンも不調で、改良を繰り返したものの結局調子が出ず、1961年(モハ5721)と1966年(モハ5720→モハ5704)にクハ700型が装備していたFS106台車と振り替え、つりかけに戻されました。

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*1965(昭和40)年にクハ702と台車交換して、つりかけ式FS-106に履き替えたモハ5704(旧5720)。クハはそのままTT-3台車を履く。

 東武5720形は、わが国の電車の高性能化の「失敗例」に挙げられます。大正初期において、アメリカの電鉄技術のデッドコピーはかろうじてできたものの、高回転電動機を使った分離駆動を実現させるために基幹部品をきちんと作る技術がなければ、欧米のキャッチアップはできない、ということを思い知らされた出来事であったのだろうと思います。

 一枚の写真から、いろいろと読めることがあるものですね。


2017年4月15日 (土)

鉄コレ箱写真の謎⑤「昭和19年、運輸通信省の奇妙な命令」

 アメリカで1920年代末から展開された駆動装置の技術革新、それがわが国に波及されなかった理由について考えてきました。

 日中戦争が始まり、アメリカ・イギリスなどは敵性国家となり、ここで電鉄技術の最新情報は途絶えてしまいます。ですから、「わが国における分離駆動の導入は戦後になってから」が正史です。
 ところが、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年の日本で、分離駆動への動きがひょっこり顔を出します。

「資材節減電車を作るため、市街電車用動力伝達方式を共同して研究・試作せよ」

 1938(昭和13)年の国家総動員法を根拠にした「総動員試験研究令」として運輸通信省(現在の国土交通省)から技術開発の課題が発布されました。名宛人は車両メーカー、電機品メーカーと思われますが、その中に「高速電動機を使った分離駆動の電車の開発」というテーマが入っていたのです。いったい、どういうわけでしょう?

 その理由は、いまとなってはわかりませんが、2つの可能性が考えられると思います。当時の総力戦体制の中では軍需産業への輸送が最優先課題とされ、工業都市の市内電車は、勤労動員でふくれ上がる工場労働者輸送に追われていました。たとえば、航空機産業を中心に軍需工場への通勤輸送を担っていた名古屋市電では、連接車2600型の中間にもう1車体を増やして、3連接車を作る計画を立てていました(実現前に終戦を迎えています)。その打開がひとつ。
 また、このころは電車用の低速電動機の製造や保守が資材の逼迫で難しくなっており、汎用の高回転電動機を電車の駆動装置に利用しようという発想だったのではないかと思われます。いずれにせよ、運輸官僚の中に、分離駆動の技術動向をつかんでいた人物がいたということを表しています。

 戦局も末期になってから泥縄式に出されたようにも思えるこの技術課題がどうなったのか、それはわかりません。実質的には何も進展しなかったのではないかと思われます。

 戦争が終わると、高性能車へつながる技術開発がわが国でも盛んになり、分離駆動への取り組みが一気に進みます。いよいよ、鉄コレ1700系(原形)の箱写真に写っていた、直角カルダン台車を履いているはずの東武5720形の台車が、なぜイコライザ式のつりかけ台車を履いていたのかという問題の謎解きにもなっていきます。

2017年4月 7日 (金)

鉄コレ箱写真の謎④「PCCカーはなぜ普及しなかったか」

 1920年代にアメリカで始まった駆動方式の革命。わが国に波及するまで、ちょうど20年の時間が必要でした。どうしてなのでしょうか。

 アメリカ・イギリス・ドイツの電鉄技術先進国の情報は、リアルタイムで日本の電鉄会社に伝わっていたはずです。GE、WH、EE、AEGなど各国の電機品メーカーは、売り込みのためにカタログや新技術のレビュー雑誌を各電鉄会社に送っていましたので、最新技術の動向を知ることができたはずです。
 そのことを裏付ける記事を見つけました。1928(昭和3)年の雑誌『オーム』7月号、8月号に分載された論文「電鉄用高速度電動機」は、米国ウエスチングハウス社の新技術であるWN駆動の紹介が掲載されていました。筆者はウエスチングハウスのライセンス生産を行っていた三菱電機の社員工藤宗眞氏です。
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 WN駆動は、台車枠に装架したモーターの軸と、車軸の大歯車と噛み合うピニオンギア(小歯車)軸との間に可撓継手を入れることで振動による変位を吸収し、伝導ロスと騒音を少なくし、モーターの重量を枕バネの上にすることで線路への衝撃を減らした分離駆動の一種です。
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この段階で、分離駆動の情報は日本までもたらされていたことがはっきりしました。ではなぜ普及しなかったのか。2つの理由があると考えられます。

 その第一は、わが国の技術力の水準にありました。初期の電車用機器はGEと東芝、WHと日立のライセンス契約関係で移入されていましたが、それぞれ国産化が図られ、EEは東洋電機を介して日本国内生産を行っていました。技術水準としては必ずしも高くなく、国鉄が大正の初めにGEのMシリーズをもとに制式化したCSシリーズの改良の途上であるなど、一時代前の技術の消化に取り組んでいた時代であり、また分離駆動に使われる高速電動機の絶縁技術が追いついていなかったという事情があります。

 そして第二に、当時の日本の電車が低速であり、高加減速性能をもつPCCカーのニーズがなかったことが挙げられます。
 わが国でPCCカーを導入しようと初めて動いたのは阪神電鉄であったと思われます。阪神は開業時、広軌高速電車を主張した三崎省三(のち技師長)をアメリカに視察に出し、インターアーバンの理想型を探らせるという先見性を持っていました。後に社長となる野田誠三氏は阪神タイガースの球団社長として知られ、野球殿堂入りもしていますが、実は技術者出身であり、1935(昭和10)年ごろのアメリカ視察でPCCカーを検討しています。
 その成果は実際に活かされることはありませんでしたが、1937年に登場した阪神国道線の「金魚鉢」70型には、東芝製の油圧制御による間接制御器が導入されており、これが研究成果の片鱗だったのかも知れません。

 しかし、この年日中戦争が起こり、敵性国家であるアメリカや欧米諸国との技術情報の交換が途絶し、わが国の電鉄技術は停滞期に入ります。ところが太平洋戦争中、ひょっくりと分離駆動が顔を出してくるのです。いったい、どういうことなのでしょうか。(つづく)


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