イヌのおっちゃんと行く東武8000系ローカル線の旅
久々の更新です。
ここのところ、風呂屋の宣伝コピーを書かなければならないなど何となく忙しく、ストレスが溜まっていたので、
イヌのおっちゃんを誘ってミニトリップに出ることにしました。
テーマは
「だいぶ勢力を減らした東武8000系の現状を見てみよう、酒飲みながら」です。
予定していた時間よりだいぶ早く、イヌのおっちゃんがやってきました。
(→イヌのおっちゃんのレポートはこちら)
錦糸町から亀戸まで歩こうというので、現在電留線になっている錦糸町客貨車区の跡を見て、
次に竪川をまたいで都電が走っていた太鼓橋が転用されている竪川人道橋を見せようと思ったのですが、見つからなくなって時間切れ。そのせいで、亀戸餃子ファーストロットに間に合わず、並ぶことに。おっちゃんおかんむりです。
亀戸餃子は座ると店のオバチャンから飲み物を聞かれ、同時に、5個盛られた皿と和辛子が塗られた醤油皿が出されます。最低2皿注文する決まり。昼前からカンパーイ。餃子が減るとオバチャンから「追加する?」と聞かれ、同意するとわんこそばよろしく一皿分の餃子が追加されるシステム。これからも飲むので3枚に抑えました。
食べ終わったらいよいよ旅の始まり。土曜日の正午、亀戸駅では2両編成の電車が着くたびに出かける人たちがどっと吐き出されます。
開業直後の一時期、ターミナルを現在のスカイツリーの場所に決めて「浅草」と称するまで、東武は亀戸線から総武鉄道に入り、一駅先の両国まで乗り入れてターミナルとしていたことがありました。亀戸線は本線扱いだったわけですが、関東大震災後の市街地の拡大で、明治通りや丸八通りなど震災復興の道路と町工場の林立を縫って走る路線となりました。運転台の後ろに立って前面展望すると、多数の踏切をまたぎ、浸水防止板が備え付けられた鉄橋を渡るなど、東武線は全体に下町を走るわけですが、亀戸線はさらに極めつけの下町を走るさまがよくわかります。小村井から先は細い路地に住宅地が密集する区間に変わります。
曳舟で乗り換えて東向島、東武博物館に。博物館から離れた水戸街道のガード下に置かれた6号SLはいつ見ても窮屈そうです。博物館開館の前後に、一部雑誌に「動態保存できる程度まで復元」と報じられたことがありますが、事実ではないそうです。鬼怒川線はC11よりも、新高徳から分岐していた矢板線で活躍するピーコックの復活を見たいなと思っていたのですが、どうも無理な相談であるようです。
博物館エントランスに保存されている5号SL(原形に近く復元されていますが、煙室が延長されたままなので昭和10年頃の姿と言えるでしょう)やデハ5などを眺めて、当時の亀戸線や伊勢崎線の姿を偲びます。
イヌ先生が着目したのは、戦後復興まもなく作られた特急車5701号の乗務員室扉。「ネコひげ」と呼ばれた湘南形正面2枚窓ですが、5700形では乗務員室後ろから先頭にかけて幅が絞られているため、国鉄80・70系のように車体断面そのままの正面2枚窓が醸し出す「大味な感じ」を払拭するのに成功していると思います。
側面から前面にかけて回っているウインドシルは、乗務員室ドアにも巻かれています。そもそもドアに補強は必要なく、構造上はまったく意味がない「飾り」ですが、「5701号は前に向かって絞りの曲率が大きくなるのに合わせて、乗務員室ドアのシルの厚みが増すように造ってある」というのがイヌ先生の指摘です。なるほど。戦災で壊滅的な被害を受け、戦後は物資欠乏で満足な整備ができない過酷な時代を抜けたばかりなのに、センスはともかくここまで「作り込む」意気込みは凄いですね。
人と一緒に何かを見に行くというのは、こういう気づきが得られるから、面白いですね。
東武博物館を後にして西新井へ、また8000系に乗って大師線の旅です。
ひと駅だけの短い路線ですが、利用者がけっこういます。
もともと現在の環七沿いに路線を延長して東上線と直結する「西板線」の一部なのですが、免許取得直後に関東大震災が起こって事業が先延ばしになった末に、スプロール化で人家が増えてしまい用地買収が不可能になって、頓挫してしまったという悲劇の路線です。これができていたら、本線と東上線の一体性は高まっていたわけで、どういうことになっただろうと思いを馳せる間もなく終点の大師前です。
ここで角打ち(立ち飲み)をしようと思ったのですが、目指す店は休業。もしかしたら閉店したのかも。
しょうがないので、そのまま北千住に戻ります。途中、西新井駅下りホームで「西新井ラーメン」を一杯頼んでふたりで食べました。「一杯のかけそば」みたいですね。ふたりとも貧乏ですからね。
北千住に戻り、「りょうもう号」で館林を目指しました。
時間は遡りますが、さきほどの東武博物館でDRC1721号のスタイルと客室を楽しみました。「デラックスロマンスカー」の愛称どおりに当時の「デラックス」感覚が盛り込まれた車両と言われていますが、内装はベージュ基調にまとめられ、窓上カーテンキセのワインレッド色がアクセントに通る、シンプルなモダンデザインであることがわかります。
車内写真右側のチェック柄の座席は、DRC最晩年にサロンルームを潰して客室化した際に使われた新製座席です。先頭車に使われたことはなく、何の説明もない展示方法はどうかなと思いますが……。
200系は新製車(250系)を除いて、FS370台車と主電動機が1700・1720系DRCからの流用、座席も流用されている編成が3編成あります。そこで、実際に200系「りょうもう」に乗り、DRCの面影を求めてみようという趣向です。
やってきたのは202編成。残念ながら座席はDRC流用でなく新製でしたが、台車の乗り心地はDRCそのままで素晴らしいものでした。帰りに乗った207編成も同じ台車ですが、横揺れが目立ちあまりよくなかったので、整備状態が反映しているのかも知れません。
北千住のホーム地下で、こんな雑誌を買ってみました。
なにか載っているみたいです。
館林に到着。しばらく来ない間に駅舎は橋上化され、雰囲気が変わっていましたが、小泉線は伊勢崎線下りホームを切り欠いたホームからの出発と、変わっていません。
しかし、西側のヤードの向こうの貨物ホーム上にあった正田醤油の蔵造りの倉庫群は跡形もなくなっていました。小泉線の前身、中原(ちゅうげん)鉄道の蒸気動車やガソリンカーは、1937年に東武に買収されるまで、正田醤油のホームに発着していました。写真のブロック塀付近がそのあたりで、面影が全くなくなってしまいました。
中原鉄道が開業させたのは館林—小泉町間。8000系は、関東平野の北端を快調に飛ばします。終点の西小泉に着いた時、ちょうど陽が落ちました。
東武に買収された後、小泉町から利根川の仙石河岸まで砂利採り用の仙石河岸貨物線が開業しましたが、1941年、中島飛行機小泉製作所の工員・資材輸送のため太田から現在の東小泉まで新線が開通、仙石河岸線に西小泉駅が開業、ここまでが小泉線となりました。小泉線はさらに南下して利根川を渡って妻沼まで結び、熊谷から妻沼まで開業していた熊谷線と一体となって小泉製作所への工員輸送を行う軍の「要請」があり、利根川鉄橋の橋脚まで突貫工事が完成したところで終戦を迎え、そのまま放置されたというのは有名な話です
(→写真家の丸田祥三さんが朝日新聞に連載中の「幻風景」の最新版が、その橋脚ですね)
西小泉駅のホームや駅舎は、当時の東武線の標準よりも大きく造ってあり、工員輸送が盛んだった面影が残っています。また、西小泉駅には仙石河岸線のレールがまだ残っており、川砂利採取が規制されるまでの貨物輸送の隆盛をいまに伝えています。
東小泉からは太田に出ました。高架化で立派になった駅ですが、直後にワンマン化や久喜での系統分断があり、設備を持て余している感があります。それでも夕方になり、小泉線と桐生線をスルー運転する8000系2両固定の交換や、伊勢崎—太田間の3両編成800・850形の出入りを見ることができました。館林・南栗橋以南では本線の8000系定期運用はなくなってしまい、つかの間の8000系天国と言えますが、712両もあった8000系は廃車が進み、残り250両に近づいています。いつまでこの光景を見ることができるでしょうか。
太田から乗ったりょうもう号を東武動物公園で下車。急行に乗り換えて春日部で向かった先は、あの店。
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