« 2014年12月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年1月

2015年1月26日 (月)

川の向こうの台湾へ

Img_0580
新宿西口で所用を済ませまして、二子玉川へ。
今回は新宿三丁目まで歩いてみました。一番近い山手線→田園都市線の乗り継ぎよりも、階段ふたつで乗り換えできる副都心線→田園都市線の乗り継ぎにしたほうが、やっぱり速く行けるようです。

Gr013499
夕闇迫る二子玉川。

Gr013500
テントのような屋根が延びていて、風景がシネマスコープサイズに見えます。

Img_0583
もうひと駅乗って二子新地。狭い駅前通りを北に向かってすぐ。

Img_0585
到着しました。おっちゃんがこちらを見ています。誰かな。

Img_0616
わたしは今年最初のカンパーイ!イェエエエエィ!

Gr013504
みんなお腹を空かせているので、すかさず焼き餃子に箸が延びます。

駄菓子菓子!

Gr013532
エビ巻きとポンキチさんのクモニが並ぶ!背後のヤードにはスカ色に塗られたボディーがゴロゴロ!

Gr013547
Chitetsuさんのモワ!AOBA MODELのキットの木目表現を引き立たせる渋いブルーグレーが!

Gr013543
しまなみ海童さんの頸城ワ。足回りのシルエットにほれぼれ。上回りのウエザリングはまるで絵のよう!

Gr013557
さらに頸城ホハも現れ、ターンテーブルのへりに沿って走り出しました!

Gr013538
Chitetsuさんのトイ改造路面電車二題。岐阜市内線を意識したモ550とヨーロッパ調の86号。グリーンとベージュのカラーリングが似合っています。

Gr013550
しまなみさんの京王電車下北南部電鉄仕様。屋根にはトルペードベンチレーターがずらりと並び、運転台にはマスコンハンドルがチラリ、華奢なイコライザー台車(これ、昔からあっただるまやのパーツでしょうか?)床下にはブレーキホイールが。イイナー。大御所Chitetsuさんも目の前におられますが、私もまた、どうしても鯨川地鉄を思い出してしまう世代なんです。

Gr013554
アレです。イヌのおっちゃんの口が開きっぱなしです。

カツブシに群がるネコのようにモケーを撮影している私たちに、オバチャンが「料理も撮ってよ〜」と煽りを入れてきます。

Gr013511
チャーハン二人前!

Gr013568
蒸し鶏!

Gr013575
アサリ蒸し!

Gr013582
焼きそば!

Gr013590
86号!

Gr013594
カレー粉の辛さがうれしいカリー飯!

Gr013565
佰老亭の夜は更けていく!

Gr013613
夜の底から「またね」とおっちゃんが迫ってくるのであった!最後はホラーだ!

2015年1月18日 (日)

正月明けたら(もうひとつの)成田臨:珍しい東武6000系の団体運用

6000_1
(宇都宮線 壬生—野州大塚)

「成田臨」といえば、思い浮かぶのは成田山新勝寺への初詣団体輸送のためにJR成田線を走る臨時列車のこと。でも、知られざる「成田臨」があるんです。

東武でも、沿線各駅で駅長主催団体として成田山参りツアーが募集され、沿線ごとに団体専用列車が仕立てられていました。行き先は牛田。乗客はここで電車を降りて、目と鼻の先の京成関谷で京成が用意した貸切列車に乗り換え、成田に向かいます。帰りはその逆の行路をたどるわけです。

80年代には、たいてい波動輸送用の5700形が使われ、ラッシュの終わった頃に複々線の急行線を力走していました。小泉線発の場合は、増発の余裕がないので、5700形を定期列車として運転、館林まで一般客と混乗させる扱いをしたこともあったようです。

快速用の6000系は当時22編成。日光・鬼怒川快速や間合いの特急連絡列車、山岳夜行列車、日光線新栃木以北の各駅停車などで運用が一杯で、臨時や団体列車に使われることはほぼ皆無でした。

しかし1983(昭和58)年、宇都宮線の駅長募集団体成田臨として運転されたことがあります。

宇都宮線は単線です。出発は朝の通勤時間帯。定期列車の3分後に続行する形でやってきました。昭和40年代は昼間の普通列車にも6000系が入っていることがありましたが、本当に久々に宇都宮線に現れ、「団体専用」の幕で朝陽を浴びて走る6000系の姿に見とれました。東武はもともと予備車を最小限にする会社ですが、6000系は特に厳しく、おそらくは、この日の予備車はゼロだったのでしょう。
結局この年が、宇都宮線からの成田臨の最終運転だったと記憶しています。

もうひとつ、6000系の「修学旅行臨」のお話をしましょう。
東京の小学生は日光への林間学校で日光へ57や8000系を利用します。「林間学校」のヘッドマークは、当時の1学期の終業式である7月20日以降夏休み期間の装着で、それ以前は「たびじ」がついているという、律儀なヘッドマークの運用をしていましたが(笑)、逆方向の話です。

これは栃木市近郊の中学校が奈良・京都への修学旅行をするための集約臨で、新栃木5時過ぎ発、6000系の準急浅草行き定期列車のすぐ後に発車する6両編成でした。これは下り快速用の送り込み回送を利用したものと記憶しています。

われわれ中学生は朝の3時半に学校に集合させられ、宇都宮線沿線の町から観光バスで新栃木駅へ。そこで栃木市内の中学校2校と、車両を分けての乗車。北越谷駅のホームのない側線に停まり、準急を退避したことを覚えています。北千住駅の浅草方にあった予備ホームに7時過ぎに到着、そこから既にラッシュの始まっている千代田線に混乗して大手町。歩いて東京駅へ、そこから新幹線の修学旅行専用列車に乗りました。0系のグリーン車に当たったので嬉しかった記憶が残っています。

復路は浅草から、やはり快速の返しの定期回送列車を利用する形で18時過ぎ発車、20時過ぎ新栃木、ここから宇都宮線の定期列車に乗って最寄り駅まで帰ってきた記憶があります。往復とも、行先幕・種別幕は無表示でした。
この時代の中学校は校内暴力の反動で生徒への締め付けが厳しく、カメラの持参は厳しく制限されました。級友が撮った写真があったはずなので帰省の際に探したのですが、アルバムごと見つからなくなってしまいました。

いまは成田臨自体も、もうなくなってしまったのではないでしょうか。「ミニ国鉄」と言われた東武ですが、こういうところも少しそれっぽいですね。


2015年1月10日 (土)

ひつじ年に寄せて:やまひつじがいた線路の土手

若い頃、東武伊勢崎線の小菅に住んでいたことがあります。
1974(昭和49)年、北千住—北越谷間の私鉄最長の複々線が一番最初に開業した区間で、延々と高架が延びていますが、小菅—五反野のわずかな区間だけ、高架の前の築堤やレンガ造りの橋台が残っているところがありました。

Miyazaki368
東武鉄道は1899(明治32)年に北千住—久喜間で開業しましたが、この付近の路線は開業当時のルートではありません。1924(大正13)年、隅田川の洪水防止のために人口河川である荒川放水路が開削され、鐘ヶ淵—西新井間の路線が変更されて、同時に電化開業しました。残されていたのは、そのときに作られた築堤や橋台というわけです。震災復興建築を中心にした「コンクリートの時代」が迫っており、レンガ造り橋台の最終期と言っていいでしょう。

Miyazaki367
その築堤上に、いつも一匹の山羊がいました。
道路を隔てて向かい側に立つ住宅(今で言うならゴミ屋敷)で飼われていた山羊で、築堤上につながれ、草を食べていました。そのおかげで築堤の雑草はきれいに刈り込まれていたというわけです。おそらく、黙認されていたのでしょう。

この頃東武伊勢崎線はバブル景気を受けて混雑が激しく、複々線上には朝ラッシュ時に容量いっぱいの列車を運転して乗客をさばいていました。そんな「戦場」の下に、山羊がのんびりと草を食んでいた事実を知る人はほとんどいなかったものと思われます。

2015年1月 7日 (水)

新年明けまして

松が取れてからの更新で何ですが、
おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

Photo

新年一回目の更新をどうしようか、と考えたのですが、これを。
ただ「赤い線が入っている」という理由であります。

東急7700系は、7000系から改造されて営業運転に入った後に、赤線が入れられました。この写真は
1988(昭和63)年冬の撮影。たまたま試運転で渋谷に入ったところに行き当たりました。久々の(旧)7000系による渋谷駅入線の情景です。このときには、目蒲線ホームの4両対応延長まで大井町線で4+2両で使われていたので6連か、基本編成4連でやってきたものと思いますが、そのあたりの確認は怠っています。

Gr006748

次の写真は、昨年2014年5月に撮影した写真。池上線に合わせて3両化され、正面行先幕と運番表示がLED化された以外はほとんど変わっていません。7045号として1965年に製造されてから今年、2015年で半世紀を迎えることになります。

« 2014年12月 | トップページ | 2015年3月 »

2020年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30