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2014年12月

2014年12月28日 (日)

ヲタはなぜ幕が好きなのか——関東バス3扉車に乗って思う

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吉祥寺駅で用務先に向かうバスに乗ろうとしたら、行き先がLEDではなく方向幕表示のバスが来ました。
珍しいなあ、ととっさに1枚撮って乗り込んでみたら、なんと東京の関東バスに1台だけ残っている3扉車ではないですか。

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一昔前の関東バスの代名詞と言えば前中後ろの3扉車。一般的な前中扉だと立客が中扉前までに固まりがちなのに対して、最後部の扉を降車用にすることで前から後ろまでまんべんなく人の流れを作ることができて詰め込みが効き、かつ終点では全部の扉を開いて乗客を降ろすことができるので効率的。京王帝都バスや、東武バスの上尾などでも使われていました。しかし、バリアフリーのための低床化により、最後部に扉を作ることができなくなって、ほぼ絶滅状態。関東バスでも富士重工7Eのこの車が、1台だけ保存車的に残されているのです。

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路線の途中で折り返す通学系統なので乗客は2人だけ。師走の夕暮れの街を眺めながら。

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もう日が落ち、構内バス停にぱらぱら待っているお客を乗せて戻っていきます(この系統専用に充当されているのではないようです)。

ちょっとびっくりしたことが。運転士席の後ろには、このバスが最後の三扉車であるという説明書きがありましたが、「路線バスとして使用しているので、乗務員に方向幕の操作を要求するのはお控えください」という注意書きがわざわざ書かれていたのです。終点などで折り返し待ちの時に、いろいろな行き先を出すよう要求するバスマニアが多くて、辟易しているのでしょう。こういうのは、気のよさそうな運転手さんに、うまくタイミングを図ってダメモトで頼んでみて、応じてくれたらハッピーという、なかばアングラな世界であり、「会社としてお断り」という掲示が出るほどの要求になっていたとはオドロキです。

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ちなみにこれは、南栗橋駅前で「東武ファンフェスタ」シャトルバスの運行が終わって、運転手さんが要望に応えて行き先を次々に変えるサービスをしてくれているところ。こんなに人がたかっちゃう。私は電車の発車時刻が迫っていたのでこんなカットしか撮りませんでしたが、ヒマだったら加わっていた?

それにしても、なんでわれわれは方向幕がクルクル回ると、どきどきするんでしょうかね?

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かく言う私も、こういうモノを持っております。方向幕だけの「模型」ですね。小学生の頃、よく、ボール紙でバスを作りました。方向幕窓をくり抜いて、薄い紙に行先を書いて、両端に爪楊枝を接着し、軸にしてくるくる回して遊んだことがあるので、「ついに出たか!」と思ったのですが、売れたのでしょうか?

「なんで鉄道が好きなのですか?」と一般の人に聞かれることもがよくあって、「小さい子どもって、大きいもの、速いもの、力強いものが好きじゃないですか。要するにオトナになれていないということです」と答えて笑わせることが多いのですが、どうもわれながら釈然としません。本質を突く言葉を追っている最中です。「何で方向幕やサボに執着するの?」という問いも、何とも思わない人に説明しがたい、似たようなところがあるかも知れません。

昔、ある出版社からある鉄道の車両ガイドブックを当時の仲間たちと出したことがあって、車両基地にお邪魔していたことがありますが、仲間たちはすぐ普段使わないレアな行先を出して遊びたがりました。私はディレクションする立場なので、使わない行先を出した写真は会社が掲載を許可してくれないことがわかっていますから、限られた時間で必要な要素と、場合によっては使うかも知れない要素を押さえたい。なので、なかば苦々しく見ていたのですが、やっぱりどきどきしている自分もいるわけです。

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この会社では、手動方向幕時代に幕を回すのは駅員の役目だったので、回送のときには無表示のコマまでハンドルを回すのが面倒で、半分ずらしただけの「手抜き」がよくありました。こんなことを再現して喜んでいます。われも好き者よのう。

方向幕が回るのを見て楽しいのは、遠い土地、知らない土地の地名が出ることの面白さのほかに、隠しているものを見たときの喜びがあるのかも知れませんね。
これは、親しい女の子の、今まで知らなかった別の一面が覗けることと似ているのかなあ。
でも、考えてみると、女の子でそうなった場合は、楽しいことばかりではなかったよね(笑)。


2014年12月24日 (水)

青春亀戸線1986

Cederさんのブログで、1969年の松竹映画『喜劇 女の度胸』が紹介されています。
京急空港線が舞台になった、倍賞美津子第一回主演、監督森崎東、脚本山田洋次の映画。空港線や本線の電車や羽田空港周辺の英字看板などが楽しめるようです。

ヒロイン倍賞美津子は沿線の女工。ならば同じ松竹映画、姉の倍賞千恵子主演で山田洋次が2回目にメガホンを取った『下町の太陽』(1963年)で張り合わねば。倍賞千恵子も曳舟の石鹸工場で働いている設定だし、倍賞美津子が空港線なら、倍賞千恵子は似たような雰囲気を持つ亀戸線で。

『下町の太陽』のタイトルバックに、一瞬2両編成の東武78系が通り過ぎます。亀戸線です。ですが、主な舞台は倍賞千恵子が通勤で使う京成押上線で、新製間もない京成3000系がたくさん登場して車内が鉄工所で働く勝呂誉が倍賞千恵子に告白する舞台になったりしていますが、ファーストシーンでは浅草駅に入線する東武73系をナメて、浅草松屋の屋上で倍賞千恵子と、早川保がデートしている場面が映し出されます。

「この川を渡ると、空が暗くなるだろ」
帰り。上昇志向が強く、本社に行きたい早川が言います。空気の淀んだ下町から抜け出したいのです。
映画は、早川と下町のガラの悪い兄ちゃんである勝呂との間、団地生活に代表されるモダンな生活と自分のなじみである旧い下町との間で揺れ動く倍賞千恵子の心を通して、東京の急激な都市化や格差の拡大をストレートに訴えてきます。

それから20年以上経った、1986年の亀戸線をごらんいただきます。
おや、偶然、その頃の「青春」がネガに写し込まれていました。

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2014年12月19日 (金)

鳥長 対 モデラー対決!

深川高橋(たかばし)の鳥長(とりちょう)にて。
ブログ「イヌゲージ鉄犬」100マンアクセス記念で伊豆急で貸切電車を走らせた際のスタッフどもの忘年会が開かれました。
鳥長の海の幸鶏の幸のかずかずと、かずかずのモケーの競演。勝負だ!(何が)

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カンパーイ。

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鳥長名物鶏皮煮込み。

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串物盛り合わせ。

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ヌキナ氏の鉄道模型社近鉄2200形。似てないんだけどそれらしいという珍品。


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生牡蠣。

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Cederさんのアメリカノースショア鉄道700形のOゲージ模型

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Chitetsuさんのかわいい路面電車と東急の電動貨車。

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なんか可愛いの出てきた。

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Cederさんのノースショアショーティ(実物よりも短くしてユーモラスさを楽しむ)。

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ノースショア電鉄のこの塗り分けが、湘南電車の色のイメージソースになったと言われています。

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Cederさんの可愛い可愛いトラムコレクション。

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鰻の短冊。

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丼飯に乗せて鰻丼に。

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それだけでは足りないので、鶏皮煮込みをまた頼んで飯に載せる。

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熊手。

さて、鳥長とモデラー、どちらが勝ったでしょうか?
みなさまはどう思われますか?

2014年12月17日 (水)

東武6000系、最終期の活躍

鉄道コレクション事業者限定「東武6000系」が東武鉄道駅売店で発売になりました。

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(東武動物公園—幸手)
地味な活躍に終始した電車ですので、みなさんにはそれほど思い入れのない電車ではないかと思います。
もちろん主目的は日光・鬼怒川への速達列車であったわけですが、東北人の心のふるさとが上野駅であったように、栃木県の東武沿線住民にとって、浅草駅は上野駅と同じような重みがある駅であり、6000系は東北筋の165系や451系・457系のような長距離急行形電車のような位置づけであったと思います。
つまり、「北へ帰る」電車であったというわけ。
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(小菅)

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(西新井—竹の塚)
ちょっと記憶があやふやなのですが、6000系定期快速の鬼怒川線の行き先は終点の新藤原ですが、かつては「新藤原」の幕がなく、鬼怒川公園で全部代用していました。そのうち、小さく「新藤原」と入るようになり、最終期の数年間は、側面幕は「新藤原 鬼怒川温泉」と2段に書かれ、東武日光行きと併結している場合は、「新藤原 鬼怒川公園 東武日光」と3段に書かれるようになりました。「新藤原」だけでは鬼怒川温泉に行くかどうか乗客が迷うからという配慮だったのではないかと思います。
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(先頭部分を拡大)

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(浅草。国鉄急行形電車とほぼ同じマテリアルですが、扇風機のスイッチやブラック仕上げの袖仕切りにご注目。テーブルの下には、ビールやジュースの瓶の王冠を開けるための栓抜きがついています。「こじって開ける」エッチングの小さな説明板がテーブルのへりについています。撮影当時は東武動物公園以北は喫煙可だったので、灰皿もついています)

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(通勤車よりは少ないですが中吊り広告も下がっていました。藤谷美和子や中森明菜が輝きを放っていた時代ですね)
この写真、見にくいですが、貫通路の上につけられた票差しに、赤字で「鬼怒川線」と書かれたボール紙の線区票が差し込まれています。裏側は黒字で「日光線」と書かれていて、浅草で駅員が入れ替えていました。これは、6050系への更新で、車内にも幕式の行先表示器が設置されるという、他に例を見ない方向性に進化していくわけです。
ちなみに、票差しは伊勢崎・西小泉行きや伊勢崎・葛生行きなど分割準急でも線区名が入れられていましたが、昭和50年代前半からは6000系快速だけに使われており、通勤車では全く使われていなかったのですが、しかし10030系の増備の途中まで新車にも延々と取り付けられて竣工していました。8000系の側面サボ受けと同じで、東武らしいといえば東武らしいですね。

一方、早朝・夜間の出入庫を兼ねた準急列車にも使用され、片開き2ドアの6000系はものすごく混雑しましたので、近郊からの通勤者の方々にとっては呪詛の対象ではなかったかと思います。
6050系では両開きドアになり、ドア付近にロングシート部を設けて少し詰め込みが効くように設計されたのはこのためであったと思われます。
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(北千住。この時代の通勤は大変でした)

2014年12月15日 (月)

南新宿の旧小田急本社ビル

渋谷の帰りがけに、新宿まで歩いてみました。
「そうそう、あのビルまだあるかな?」

南新宿駅の脇にある、旧小田急本社ビルです。25年前は小田急の病院になっており、スクラッチタイル貼りだった記憶があります。ツタもからまっていたかも知れない。
四半世紀ぶりに再会したビルは、外装は新しい石材や窓枠でリノベーションされていたものの、全体の形はほぼ当時のままを残していました。

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設計は、服部時計店、日劇、GHQの置かれた第一生命館、横浜のホテルニューグラント、大阪放送会館など数々の華やかな建築を手がけた渡辺仁。小田急本社ビルは1927(昭和2)年築とやや早期の作なので、ドイツ表現派のような、少々重い造作になっています。

大阪放送会館のネガが出てきました。こんな感じです。塔をわざとアシンメトリーにしているところに、表現主義の残り滓のようなものも感じます。1936(昭和11)年築。4年前に竣工した銀座四丁目の服部時計店が凸面のカーブを描くのに対し、こちらは凹面のカーブになっているのが面白いですね。撮影は連続テレビ小説のタイトルからして1999年です。どんな話かは忘れました。この3年後に取り壊されています。

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そういえば、ロマンスカーVSEも、建築家岡部憲明のデザインですね。建築と建築の出会い、そして別れ。

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2014年12月12日 (金)

池上線1985

最近おやじ共のブログで、池上線の写真をupするのが流行っているようです。
私もおやじなので、参加します。

オリンパスXAという小さなカメラを手に入れて、スナップに熱中していた頃なので、
車両はまともに写っておりません。

でも、こうして見ると、「人に近い鉄道」という感じがしますね。

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2014年12月10日 (水)

東武6000系の魅力は車内デザインにあり

犬谷号さんからコメントをいただきました。
東武6000系の外観がダサい、と書いたことに反応されてです。
それにしても、いつもハンドルを変えてこられるのがすごいです(笑)。
このエネルギーはいったいどこから。

……
でもいつも思うことですがデザインとしてのダサさと
鉄道車両としての魅力は正比例しないですよね、、、
……

昭和20年代後半、車両の構造の革命が起こります。
台枠に柱を立てて外板を貼るスケルトン構造の旧型電車から、航空機のボディーのように外板も構造材として力を受け持たせる張殻構造・半張殻構造へと車体が変わり、同時に駆動方式も吊り掛けからカルダン、WNなど間接駆動へと変わります。

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(西鉄香椎)
半張殻構造の皮切りとなったのは、1952(昭和27)年登場の西鉄313形です。高張力鋼板を使って思い切った軽量化を果たした東急5000形など、「機能を反映したかたち」の美しさを模索する時代が続きます。そのひとつの極致が、名鉄7000形パノラマカーだったのではないかと思います。

一方、東武はそのようなトレンドとは無縁なところにいました。とにかく輸送力増強に追われ、20m4扉の7800系を作り続けていたからです。昭和30年代なかばに至り、新性能、新型車体を自分のものにする際に生まれたデザインコンセプトは「とにかくシンプルに」でした。1720形DRCは別として、安く、簡素に、大量にという考え方が8000系を生んだわけです。6000系もそれに準じた考え方で作られています。

東武デザインの美しさは、外観よりも車内にあったと私は考えています。1960(昭和35)年のDRCに始まる、黄土色に近い濃いベージュの内装に、金茶モケットシートのシートの組み合わせ。単色の室内のカラーアクセントとして、窓上のカーテンレールをワインレッドとして、一本帯を通したのがとても効いています。

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(DRCのカラーポジが出てこないので、同様のカラースキームの「りょうもう」用1800系を。一般車改造された姿ですが、ワインレッドが効いてますね。シートは現在の一般車用の緑色に張り替えられていますが、これはこれでベージュによく合います)

6000系の室内は、デッキがない以外は国鉄153系、165系とほぼ同じ構成と言えますが、網棚をステンレスパイプにしたり(国鉄電車は旧型客車の流れを汲んだ網)、蛍光灯にカバーをつける、ヒーターは座席下に収めるのではなく、旧型客車と同じく室内窓際に長手に通し、暖房効率を高める工夫がなされています。

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(夜の新栃木行き準急の車内。左側のボックスとボックスの間、上衣掛けフックの下に、扇風機のスイッチがあるのが見えます)

とりわけ特徴的なのが座席です。モノ自体は国鉄のクロスシートと同じですが、背板にモケットを張らず、ベージュの内装色よりも濃いベージュ色のデコラを張って簡素化しました。そして写真ではわかりにくいのですが、肘掛け下の袖仕切り板をブラックの仕上げとしたのです。

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このブラック仕上げ、私はものすごく好きでした。シャープな逆台形のブラックが、ベージュの内装をきりりと引き締めています。まさに60年代モダン。簡素さを徹底させた結果、美しさが生まれたという、機能とかたちがマッチした、モダンデザインの成功であったと思います。

一般車の2000系、8000系は内装ベージュに対するアクセントカラーがありません。比べると、1色加えるだけで、こうも違うのかと思い知らされます。

あんまりこういうことを言う人がいないので、この機会に言っておきます(笑)。

2014年12月 9日 (火)

ただいま検討中(笑)。

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2014年12月 8日 (月)

鉄道コレクション事業者限定・ブサカッコイイ「東武6000系」で悩む

本当は、前回の続きで丸ノ内線の30年前の写真をお見せするつもりだったのですが、
スキャンデータが見つからなくなってしまいました。
そういえば、最近HDDが1個クラッシュしたな。そこに入っていたのかな……。

というわけで、急遽、きょうのお話を。

「東武ファンフェスタ」に行ってきました。
今回は工場でTD継手のお勉強をしてきたのですが(笑)、
ついでに事業者限定の鉄コレ6000系を買ってきました。
わたくし「低N」という名前の由来は、「低級Nゲージャー」というありがたいあだ名からでございます。ですから。
(つけたのはこの人。君も投票しよう!)

東武6000系は、1969(昭和39)年、日光線の快速用に作られた電車。
私は個人的に大変お世話になった電車です。

小4から高校まで栃木に住んでいましたので、東京へ行くということになるとこれに乗ったわけです。
スペーシアはいま、春日部、栃木、新鹿沼とこまめに停まりますが、DRC1720系時代はその末期を除いて新栃木に1日1往復だけしか停車しませんでした。「けごん」「きぬ」は誇り高い列車であり、われわれ下々の沿線住民は非冷房6000系の快速や板張り吊り掛けの78系準急に詰め込まれるしかなかったのです。

でも、6000は俊足で乗り心地のいい電車。非冷房でしたが、夏は窓を開けると風が入りました。海側のボックスごとに扇風機のトグルスイッチがあって、乗客が入切できるようになっていたのが印象的です。

性能は前年に登場した8000系のマテリアルをもとに、停車駅が少ないので制御器はDRC1720形と同型にし、日光線の明神から始まる連続下り勾配を安全に走れるように抑速制動を付加、電気ブレーキの容量に安全マージンを持たせるためモーターを直列に永久接続したためパラノッチがないという特徴があります。

で、6000がモディファイ的に難しいところは、スタイル要素が見る角度によって全然違って見え、ある角度からはかっこよく見えなくもない、別の角度から見るととてもダサい、トータルでいうとダサい、これってどこから生まれていて、どう表現するかがなかなか難しかったわけです。

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これはカッコイイと言えなくはない。(栃木—新栃木)

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この角度は、なにか、出来損ないのようにダサい。昔の漫画の泥坊のような顔だ(家中)

その原因は、兄弟車の8000系と違ったデザインマテリアルに起因しています。

・方向幕と種別幕を正面窓の上に置いたため、貫通路の上に何もなくなってしまい、海坊主のような張り上げ屋根になった。
・8000系に比べ、保温・遮音のため床を厚くしているので正面窓が上がり、ただでさえ広い腰板がますます広くなって、8000系よりも鈍重な顔つきになった。
・前照灯と尾灯が8000系に比べて中央寄りになっている。

これらの要素を押さえないと、模型は「ブサカッコよく」ならないと思います。昔、GMの8000系前面とトミックスの50系客車の側面を組み合わせて作りましたが、オデコと前照灯には気を配ったものです。

今回パッケージから取り出して、鉄コレ8000系と並べてみました。なかなかどうして、よく出来ています。

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8000系と並べてみると、なんと、ちゃんと床の厚みの違いが表現してあり、正面窓が上がっています。これはすごい。しかし、前尾灯がオーバースケールなので、このすばらしさ(カッコ悪さ)が活きてきません。もちろんモデル的に考えれば、これはこれで悪くはないのですが……8000系の造作も、こうやって見ると悪くないなと思います。

しかし、なにか違和感を感じるのです。なぜだろう。

あっ。オデコが広すぎるんだ。

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鉄コレの正面の雨樋は、乗務員室扉の前端から1.5ミリ以上後ろに下がっていますが、実物の雨樋は乗務員扉とほぼ同じ位置なのです。

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ほらね。
つまり、海坊主がますます海坊主になってしまっているのです。これはけっこう響く……。

それでも見慣れてくると、上から見下ろしたり下から見上げるような角度で見ると、オデコのデフォルメがそれらしく見えてくるから不思議です。

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とりあえず1両雨樋を前進させてみようと思うのですが、屋根化するオデコ部分を一段下がっている屋根板のレベルまで削らなければならず、これはけっこう大変そうです。どんな加工をしたらいいだろうか悩みどころです。
前面まわり造形の美点としてもうひとつ、マーカーライトの表現が秀逸であることを挙げておきます。実車の、半分雨樋に埋まったような、変な取り付け方がよく再現されています。これで雨樋位置がちゃんとしていれば……。別パーツになっているので、雨樋を移設してもうまく使いたいものです。

いつ手をつけるか。なにしろ「低N」なので、ほんとにやるのかどうか、わかったものではないのです。

最後にもう一つ、ベンチレーターがバラバラに曲がってついていて、見ているとなんだか情緒不安定になりそうな気分ですが、これはベンチレーターがはめ込みだけでついているからで、定規を当てればすぐ直せます。

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2014年12月 6日 (土)

丸ノ内線の2両編成

確か、1953(昭和28)年の丸ノ内線池袋—お茶の水間開業時は2両編成だったと思うのですが、東京駅開業から3両編成になり、1981(昭和56)年に2000形2両で運行されていた方南町支線が3両編成に組み替えれてからは、2両編成は見られなくなっていました。

ところが、1995年、突如1日だけの復活があったのです。
池袋駅構内のシーサスクロッシング交換工事のため、7月の日曜日1日、ほぼ終日新大塚ー池袋間を運休、本線はシーサスのある茗荷谷—荻窪間の運転とし、茗荷谷—新大塚間はB線の片線運転で往復、これに500形2両編成が充てられました。既に本線は02系で統一されてたため、方南町支線用の3両編成の中間車を抜いて2両編成を仕立てたというわけです。

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(茗荷谷)
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手作り感あふれる行先表示。

Wikipediaを見たら、こんな記述がありました。
……
• 83編成 (729-719-720))
1995年夏に池袋駅構内の分岐器交換工事のために新大塚 - 茗荷谷間で単線運転を実施したが、現用の02系では固定編成のため短編成には出来ないことからここでも500形を使用し、83編成のうち729を抜いた2両編成で運用された[16]。この際、行先表示器やステッカーは「新大塚 - 茗荷谷」と表記された。
……
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(新大塚)
あれ?729がいるよ(笑)。
中間の719を抜いたというのが真相です。
久しぶりに、窓を開けて本線を走る500形を堪能しました。
次に500形が本線を走ったのは、お別れ運転のときでした。

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2014年12月 5日 (金)

今宵もまた徹夜

きょう(4日)は、京王線で八王子市まででかけてきました。
ちょっとした変化を見つけました。
8000系の吊革が変わっていました。丸形の握りは大きく、全体に細くなり、さらに上に行くほど細くなって軽快な印象に変わっています。
現在主流の三角形の握りはアイロンの持ち手の太さや形状を参考にしたと言われていますが、この握りはまったく新しいカタチを提案しています。けっこう握りやすいです。
樹脂のパーツは従来品よりも点数が増えているように見受けられます。やや半透明の材質(ポリプロピレン?)で、型のパーティングラインもはっきり見えるので、正直安っぽい印象が否めません。
見慣れる日は、来るでしょうか。
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2014年12月 4日 (木)

今夜は徹夜だー

というわけで、今宵はこれにて失礼。
時代を超えて残っているのは「中山式(腹巻)」のネオンだけのようですね。
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2014年12月 3日 (水)

大阪の街に復活した「しずかに」マーク

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大阪市営地下鉄緑木検車場の公開では、1964(昭和39)年日野製の「ゼブラバス」と呼ばれた塗色の市営バスの旧車と、ラッピングで旧塗装を表現した復刻塗装のバスが並べて展示されていました。

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結構な雨降りで、じっくり眺めるヒマがなかったので写真を撮ったときには気づきませんでしたが、「しずかに」マークがリアについています。
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市電のマークは前面向かって左側ですが、バスはリアの右側についています。道路中央を走る市電を車は左側から追走したり追い越したりするため、バスは道路左端のバス停に止まるのを右から追い越すことが多いためなのでしょう。
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復刻塗装車(写真奥)は6台あるそうで、しばらくは大阪の街中で「しずかに」マークのバスを見かけることができそうです。単に懐かしさだけではなく、昭和30年代の社会問題までをいまに伝える「復活塗色」は素晴らしいなと思いました。

今月はじめに仕事で6日ほど大阪に滞在していましたが、「町をしずかに運動」から55年、大阪の道路は静かになりました。


2014年12月 2日 (火)

しずかに

大阪の方々には、先刻ご承知の話かもしれません。

市電の保存車両を見るのは、初めての経験でした。これは1928(昭和3)年に造られた1601形。東京都電よりはるかに早く大型化が図られた堂々たる車両。大阪空襲で焼け、外板を張り替えて復旧したそうです。
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ちょっと、不思議なものを見つけました。戦後も活躍した車両の正面左側の窓下に、
「しずかに」と書かれた表示が見えます。これ、どういう意味なんでしょう?
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バンパーの上に書かれた「乗降者横断優先」という自動車に対して書かれた表示は、東京都電はじめ他都市の路面電車でも見たことがあるのですが、「しずかに」は初めてです。しかも、図案化されている。何らかのキャンペーンをも伺わせます。

ちょうど居合わせたご同好の方に聞いてみました。「さあ、大阪のオバチャンの会話がうるさいから、“車内ではしずかに”という意味と違うかな」。

そうなんですか。
「いや、全然違います」
と、市交OBで路面電車・地下鉄に大変お詳しい宮武浩二さんに笑われました。

大阪市では街頭の宣伝放送がうるさいという苦情をきっかけに騒音を抑えようという機運が高まり、1958(昭和33)年から「町を静かにする運動」を市民運動ベースで展開しました。その運動のシンボルマークがこの「しずかに」というワッペンだったんですね。

この運動により、自動車のクラクションを「鳴らす義務」を定めていた道路交通取締法施行令が改正され、「鳴らさない」ことが標準と180度転換したというわけです。60年代日本映画の街頭シーンでは車のクラクションがたくさん鳴っていますが、あれは単なる効果音ではなかったんですね。

ちなみに、町を静かにする運動については、大阪市のページにいきさつが載っており、こちらには街頭の看板の写真が出ています。

その頃、大阪のオバチャンのしゃべりが騒音だと思われていたかどうかは、謎です。

2014年12月 1日 (月)

二階建て電車のトロリーポール

黒澤明の『天国と地獄』。
誘拐犯のインターン・山崎努がかけてきた脅迫電話の録音を捜査本部で再生すると、電車が走っている音が入っている。
「この音はなんだ」。電車の走る音に、高い変な音が混ざっていることに気がついた刑事は、横浜駅にテープレコーダーを持ち込み、乗務員の休憩所でこの音を聞いて貰う。
「ああ、この音はね、江ノ電のポールの音だね。ガッタンゴーと走ってくる後にチュチュチュチュチュと鳴ってるね。このへんでこんな古いのを使ってるのは、江ノ電しかないんですよね」
栃木弁で剽軽に答える乗務員にふんするのは沢村いき雄。栃木出身の俳優であった。

犯人のアジトは江ノ電沿線だと特定される。次のカットで、ポールを振りかざして走る江ノ電100形(タンコロ)の姿が映る。
「チュチュチュチュチュ」という音は、ポールの先についているホイール(滑車)が架線と接して回る音なのだ。

……昨日ご紹介した、Cederさんの「3本ポールの電気機関車」。
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ご本人から昨日の記事にコメントをいただいて、「真ん中のポールはホイール、両端のポールはスライダーで集電していた」ことがわかりました。スライダーとは、ポールの先が溝になっていてそこに架線がはまり、パンタグラフのスリ板のように、摩擦で集電する仕組みです。Cederさんによると、スライダーの方が高速運転に向いているのだそうです。

さて、昨日もご紹介した大阪市交緑木検車場。四つ橋線住之江公園駅から無料バスが出ていましたが、不案内のため、人だかりがしているところがバス乗り場だろうと思って行ってみたら、そこは競艇場でした。やっと見つけたバス乗り場の看板。かっこいいですね。
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一番奥には「市電保存館」があり、ラッキーなことにここも見ることができました。明治から昭和にかけての名車6両を保存。使用されている機器は常に当時の最新のもの、実験的機構もいろいろ採用されており、大阪市交が日本の電鉄技術をリードする存在であったということを、いまに伝えています。

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その中でひときわ目立つのが、明治37年に造られた「二階建て電車」。ロンドンバスのように運転台の脇のらせん階段から二階に上って眺望を楽しむもの。このころ、電車の黎明期から昭和の初期にかけては、ボディの鉄板が金網になって走ると風が通る「納涼電車」など趣向を凝らした電車がありました。納涼電車は江ノ電でも走っていました。

この話をFacebookに書いたところ、「2階に上がった客が、トロリーポールからのスパークで出た火花を浴びないか?」というコメントがつきました。電圧が600Vですから、スパークしても火花が落ちてきて熱いということはないと思うのですが、すぐそこでバチバチするのは気持ちよくないですね。

実は、この2階建て電車は、昭和28年に造られたレプリカ。残っていた本物の台車を使って自走が可能で、2階席にビューゲルがついています。しかし、走るときには客は乗せなかったのだそうです。

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では、本物はどうだったのか。当時の状況を現在に伝える模型が残っていました。写真では少し切れてしまっていますが、運転台の真上からポールが後ろに向かって伸びていて、2階客席のはるか後ろで架線に接するようになっているのでした。考えたものです。

「この模型は大正時代の作で、こっちのほうが昭和に作られた実物のレプリカよりも貴重です」
案内してくださった市交OBの宮武浩二さんは、こう笑っておられました。

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