2017年2月11日 (土)

東武電機のデッキ端梁警戒色は車体色か黒か

鉄道コレクションの東武ED5080が発売になって以来、ネットで「デッキ端梁の警戒色はイエローと車体色なのに、製品ではイエローと黒に塗り分けられている。間違いだ」という意見が散見されます。

たしかに、電機の活躍が最後の平成に入ってからの頃は、車体色のぶどう色2号とイエローの塗り分けでした。しかし、昭和40年代〜50年代は、黒と黄色に塗り分けられていたんじゃないかな〜という記憶があります。
あんまりカラーで撮っていないのですが、昔の写真を引っ張り出してみました。

まずこれ。

Ef4021

1983年1月に撮影したED4021です。このとき廃車されたばかりで、杉戸機関区に集められた姿。う〜ん、車体色と黄の組み合わせに見えるが……

次。東上線のED5015。
Ed5015_2

1983年3月の撮影です。これは黒に見えると思いますが、どうでしょうか。

Ed5015

東武博物館に収蔵後。1990年に収蔵される前に再塗装が行われています。これは明らかに黒+黄に塗られています。

東武の電機の塗色はぶどう色2号ということになっていますが、国鉄のそれよりも黒が強く、ぶどう色1号に近いのではないかと思うぐらいで、なかなか黒と車体色の判別が難しい。『東武の鉄道車両90年のあゆみ 写真集』でも黒と車体色が混在しているように見えます。
ED5015の現役時代の写真の車体色と端梁警戒色部の色相をネットの判定サービスでチェックしてみるとやはり異なる色相として検出されました。ただ、あくまで参考値程度にとどめておくべきかなと考えています。

しかし、

Img_2329_1

これはJ・W・ヒギンズさんの『発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 東日本私鉄編』(JTBパブリッシング)。コダクロームで撮影された、非常に色再現性の高い一枚ですが、これは明らかに黒+黄ですね。68ページに掲載されているのでご参照ください。
「昭和30年代末から40年代にかけては黒+黄。50年代後半から電機が消えた平成にかけては車体色+黄」ということではなかったのではないかと考えます。

最後に。

Ed5081

これは貨物列車最末期の2003年に館林機関区で私が撮った写真です。悪天候でコンディションが悪いというハンデがあるのですが、これは黒+黄ではないかなあ……。各所を急いで撮る必要があったので、じっくり吟味している時間がなかったのが悔やまれます。

東武ED5010(後期)のパンタカギ外しを杉戸高野台の保存機に見る

大変ごぶさたをいたしました。

2つ前のエントリのコメント欄で、「もと東武沿線ファン」さんからこんなコメントをいただいていました。

>鉄コレの5010後期型の前照灯後ろから出ているパンタ引き棒も、
>実は間違っているんですよ笑、前期は見ての通り前照灯の真後ろ
>から出てますが、後期型は、助手がわにありました四角い箱から
>引き棒が出ていました。

これは確認しなければならない。
ちなみに、パンタ引き棒とは、通常はスイッチ操作でパンタグラフの上昇・下降に用いているエアーが失われているとき(長期留置後など)に、パンタグラフを手動で上げる際に使うリンクの一部を構成するものです。

というわけで、杉戸高野台の西口広場近くの公園に保存されているED5020を見に行きました。

Gr023063

手前が1位側(浅草・池袋方)です。こんな具合に、かなり荒廃しています。屋根上をどうやって見るのか? よじのぼると問題になりそうだし、それを見越してか正面の扉左脇にあったステップは撤去されてしまっています。


Gr023042

そこで、2メートル30センチ長の自撮り棒を用意しました(笑)。右端に自由雲台をつけ、コンパクトカメラのリコーGRをねじ込んで、インターバル撮影を仕掛け、ノーファインダーで自撮り棒を差し上げて何とか撮ろうという作戦です(笑)。現行機種のGR2だとスマホに画像を転送してリモートコントロールで撮影できるのですが。ちなみに、ベンチの下の空き缶を捨てたのは私ではありません。写真を撮っているときには気がつきませんでした。

では早速。

Gr022912_2

1位側からパンタを見ています。センターから左、助手側の箱の右側面に穴が開いています。ここからワイヤーが伸び、右側の○で囲んだ直角のリンクにつながっています。リンクにワイヤーの切れ端が残っていますね。
運転台で紐を下方向に引くと、滑車で方向を変えたワイヤーが枕木方向左向きにリンクを引き、直角のリンクが今度は線路方向に手前に引く力となってパンタのカギを外してパンタを上げる、という仕組みになっています。

また、パンタ枠の右側に2本、パンタの上昇下降を司る空気管が車体に入っているのが見えます。木製のランボードが朽ちてしまい、逆に配管の入り方がよく見えます。

Gr022933

今度は2位側(日光・寄居側)から見ます。パンタカギ外しは全く同じ構造です。
パンタの右側、空気管とともに母線(高圧管)が入っているのが見えます。空気管は点対称ですが、母線は線対称(山側・西側)に入っていることがわかります。空気管・母線の配置は前期型と同じですね。
また、正面雨どい手前に小さな穴が開いていますが、ここには汽笛が取り付けられていました。いまでは失われてしまっています。汽笛は国鉄機関車のように真鍮磨きだしではなく、車体色に塗られていました。

Gr022983_2

もう一度1位側に戻り、パンタの左側を見ます。こちらは母線のみが引き込まれているのがわかります。

保存状態としてはけっこう悲惨ですが、屋根上の記録をとどめることができました。
もと東武沿線ファンさんのおっしゃる通りでした。どうもありがとうございました。
お返事が遅くなってごめんなさい。

2016年7月 6日 (水)

東武ED5010、さらなる前期・後期のディテール違い(パンタカギ外し編)

Img775

東上線貨物廃止直前、さよならヘッドマークをつけて貨物列車の先頭に立つED5010後期車ED5017。前回のエントリではED5015を掲載しましたが、坂戸機関区所属の前期車ED5012〜15が廃車されるのと入れ替わりにED5016、17が杉戸機関区から転属しました。最後に残ったのが下板橋の秩父セメント生コン工場へのセメント列車で、セメントばら積みのホキ5700と、袋詰めセメントを積んだ秩父鉄道のワキ800と秩父セメント私有車のテキ200が1両ずつ連結されていました。

Img769

大山駅を通過する下り返空列車。ED5016が先頭に立っています。

さて、「もと東武沿線ファン」さんから、ふたたびコメントをいただきました。
今度は、パンタグラフのカギを外して上昇させるリンクの出方についてです。

>前期は見ての通り前照灯の真後ろから出てますが、
>後期型は、助手側にありました。
>四角い箱から引き棒が出ていました。

まず前期。


5015

赤丸の中です。室内で運転室後ろの引き紐を下げると、おそらく箱の上部にある軸が回転して、箱の外についた直角のリンクが引き棒を手前に引くことでパンタのフックが倒され、パンタが上昇する仕掛けです。後期車はどうなのか、さきほどのED5017の写真をもう一度見ると、

Img775_2

確かに助手側に箱が移されています。

Photo

鉄コレのモールドを見ますと、真ん中に「箱」がモールドされていて、どうも博物館の前期型を参考にしたようですね。場所的には青丸の位置ぐらいでしょうか。でも、Nではほとんど気にならないところですね。

ところで、パンタグラフのフックは、ちょうど台枠の中心についています。
1

この写真は、彦根の近江鉄道ミュージアムのイベントで、PS13パンタの構造を教えていただいたときのもので、フックの付き方がおわかりになると思います。東武ED5010前期型のように車体中心に引き紐があれば、まっすぐのリンクでいいのですが、後期型のように助手側に引き紐が寄っていると、屋根上に軸を1本つけて、車体中心に引き棒が来るようにしているのではないかと考えられます。私はそのあたりのディテールがわかる写真を撮っていないので、そこを解明する方法をいま、考えているところです。

細かいことなんですけどね。
「もと東武沿線ファン」さん、重ねましてありがとうございます!


2016年7月 3日 (日)

【訂正】東武ED5010前期型と後期型では、避雷器の位置が異なります

前回の記事〔鉄コレ東武ED5010発売と「避雷器の位置について」〕にコメントをいただきました。

>避雷器については前期型、後期型で、位置が違ってました。
>保存されています5015は、東上線で現役の頃は、
>保存してある位置の避雷器で間違いではありません。

ええ〜、そんなことが……と、私が撮った写真を改めて確認したところ……

あっ!

Ed5015

2丁のパンタの根元には、避雷器が見えていません。列車は池袋方を向いていますので1位側です。
避雷器はご指摘の通り、東側(海側)に線対称でついていることがわかりました。
東武博物館に保存の位置では、2位側(寄居方)が順路に向いていますので、避雷器は両方向かって左側についている現在の位置で正しいということがわかりました。

「ED5010前期型の避雷器は海側に線対称に、後期型は正面向かって右に点対称に付いている」
と記述を改めさせていただきます。

30年ぐらい「点対称」と思い込んでいたので、虚を突かれた感じでした。
「もと東武沿線ファン」さん、ありがとうございました。また変なところがありましたらご教示ください。

2016年6月26日 (日)

【次の記事で訂正あり】鉄コレ東武ED5010発売と「避雷器の位置について」

たいへん間を開けてしまいました。ごきげんよう。

鉄コレ東武ED5010が発売されました。先に発売されたED5070同様、いい出来だと思います。
ED5010は、1957(昭和32)年から始まった「貨物電化5ヶ年計画」に従って日立で製造された機関車です。ED5060は1960(昭和35)年から東芝で製造された同性能の機関車で、メーカーごとに形式が分かれた格好になっています。

ED5010は製造時期で前期と後期に分かれており、正面窓の位置と側面ルーバーの形状が異なります。鉄コレは後期の一番最初である16号機のナンバーが印刷済みになっています。

保存車は後期のED5020が杉戸高野台駅近くに車掌車のヨとともに保存されていますが、残念ながら荒廃しており、東武博物館に保存されている前期のED5015を参考にされる方が多いだろうと思われます。2階のプロムナードから屋根上を見下ろすことができ、配管などのディテールをよく観察できます。

Gr033297
博物館の展示では手前が2位側、伊勢崎・日光、寄居側となります。

Gr033307

ただし、気をつけていただきたいのが避雷器の位置です。東武箱形電機の避雷器は、2丁パンタのそれぞれ正面に向かって右側についている、すなわち点対称の位置にあるのが正しいのですが、保存ED5015号のそれは、なぜか手前の2位側(日光・伊勢崎、寄居側)は左側についてしまっています。これは間違いで、保存のため整備をした際のミスではないかと思います。

【間違いではありませんでした。次(新しい)記事をごらんください】
Dsc_5259
さらに寄ると、母線や空気配管、パンタ取り付け部の屋根にある、車内から制御器や抵抗器、CPなどの機器を出し入れする口のフタのボルトの形状がよくわかりますね。

避雷器の正しい位置については、現役時のED5024の写真を見ていただけると、違いがわかると思います。左側が1位、浅草方向となります。

Img701

これはED5060やED5080も同じ。ご参考までにED5063の写真をご覧に入れます。手前が1位側、浅草方面です。写真でご覧いただけるように、電機はその末期に避雷器が上半分にカバーのかかったタイプに取り替えられましたが、ED5010のほとんどはカバーのない、大きな碍子むき出しのタイプを装着したまま生涯を終えました。パーツでいえば、GMの8000系用パーツはカバーつきですが、ペアーハンズのパーツNP-013がカバーなしなのでED5010、ED5060、5080の1980年代なかばまでの姿に適合します。

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鉄コレの箱に印刷されている「屋根上パーツの取り付け方法」は、正しい避雷器の向きを示してますので、これを参考にされて加工ください。「避雷器と汽笛は同じ側にある」のが正しいんですね。ちなみに、図は車体を内側から見たかたちになっているので、ご注意ください。

Img_0092

なお、運転台上の屋根上につくホイッスルは博物館のED5015では真鍮の地を磨きだしており、鉄コレのパーツも金色になっていますが、現役時は車体色が塗られていました。ED5063の写真では真鍮地磨きだしですが、これはごく末期になってからの姿です。
もっとも、ホイッスルは金色に光っていたほうがかっこいいですけどね。

2016年1月22日 (金)

鉄道ピクトリアル「東武8000系特集」

Img_4812
正月からほとんど休みのない状況が続き、更新が空きました。

で、早速買い求めました。
素晴らしい特集です。「東武8000系のすべて」が盛り込まれていると言って過言ではないと思います。

花上嘉成東武博物館名誉館長による「東武鉄道8000系を省みて」は、8000系登場までの東武の車輌計画を初めて明かし、昭和37年から計画が二転三転していたこと、それは東京オリンピックをにらんで、新幹線や国鉄車輌の大増備のなか、製造遅れを懸念して早期発注をするためだったという事情が明かされています。これは初めて出てきた事実で大変興味深いものです。
ただし、私はこの頃の名鉄車輌史を追っていて、パノラマカーを増備していた当時の車両部の資料を見ているのですが、そのような動きをしていたという事実には行き当たっておりません。東武車を作っていた日車蕨と名鉄車を作っていた熱田工場、それぞれ新幹線車両を作っていたはずです。名鉄の事情について、詰めてみたいと思いました。

また、8000系は計画段階ではステンレス車体で構想されていたという話は、ピクトリアル「私鉄高性能車特集」で花上さんが明らかにしたところですが、通常、新車を作る際には3案ほど検討されるはずで、それ以外の構想に何があったのかについて知りたいところです。

粂川零一さんの「東武8000系のプロフィール」は、大変な労作です。20年にわたって712両製造されたバリエーションと、その後の修繕工事でさらに多岐にわたることになったバリエーションを年代ごとに番号を振ってまとめ、変遷表も相まって全貌が把握できるもの。8000系を体系付けた決定版と言えると思います。また、記事中に掲載されている林智春さんの一連の写真は、西新井工場での冷房改造の模様をはじめ、80年代東武のトピックスをいろいろ思い起こさせるすばらしいもの。よくもここまで記録されたものだとつくづく感服しました。

東武8000系についての決定版といえるこの特集、ややもすると模型ファンは外見のバリエーションがわかる記事のみを評価しがちですが、車両設計したり保守点検したりする現場では、そのことに無関心である、つまり意味がない、ということが本職の方々と話していて痛感させられるところです。模型誌ならそれでいいかというと、そうは思いません。ディテールを語るだけでは片手落ちなのです。
ひとつの車輌系列史として、生まれる背景、できあがった車輌がどうしてこうなったかという必然性、使用状況による変遷、一生を終わるまでを解説しきった、まさに王道の特集と言えると評価します。東武ファンであろうとなかろうと、新しい車両史の叙述として必読の特集であることは間違いありません。

2015年12月24日 (木)

東武3000系の「中抜き」2両固定

東武3000系は2両固定と4両固定とがあります。
2両固定は上り方からモハ3500+クハ3600、
4両固定は     モハ3100+サハ3200+モハ3300+クハ3400
と付番されています。

更新当初、4両固定が予定されている編成も、モハ3100+クハ3400の2両固定で出場し、営業運転に入っていました(更新当初は違う番号体系の付番でしたが、複雑になるので説明は省きます)。後からサハ+モハの中間車を作って組み込み、4両固定を完成させていました。
これは、当時、高度経済成長で年間10%も乗客数が伸びていた時代なので、4両固定ができあがるまで遊ばせておくヒマがなかったものと考えられます。このような更新のやり方は、3050系、3070系も同じでした。

3000系列は機器配置が2両ユニット単位で、4両固定になるとモハ+サハ、モハ+クハに分かれるのですが、もともと、中間車のサハ+モハを抜けば先頭車のモハ+クハでユニットが組めるようになっています。そこで、野田線の輸送量が増えた昭和52(1977)年から54年にかけて、3000系6両編成を標準とする際に、4両の中間車を抜いて他の4両固定に組み込み6両化し、抜かれた4両固定の先頭車は2両固定とする編成替えが行われました。
Tochi798
写真の3124編成がそれです。中間車を抜かれ、モハ3124+クハ3424の2両固定となりました。モハ3500+クハ3600の2両固定と同じになったわけですが、改番は行われませんでした。
抜かれた中間車は3123編成に挿入され、モハ3123+サハ3224+モハ3224+サハ3223+モハ3323+クハ3423の6両固定となりました。長編成化のため、ブレーキ管の減圧で作動する自動ブレーキの効きが悪くなる対策として各車に電磁弁を搭載、非常ブレーキの際には電磁弁が作動してタイムラグを短くする改良が行われています。

2015年12月20日 (日)

東武3050系の拡張運転室、その実際

前回は、鉄コレ東武3000系と3050系とで、後者の運転室拡張にともなって乗務員室扉が前面から後退した模様が作り分けられているというお話をしました。

3000系は前年に登場した8000系と同じ1113ミリの奥行きの乗務員室(三面折妻構成なので、一番奥行きが長い貫通扉基準)を持っていましたが、狭いと苦情を受け、まず8000系が昭和44(1969)年の8152編成から運転台側のみを400ミリ後ろに拡張し、1513ミリとしました。そして2年後に更新が始まった3050系も、同じ仕様となったものです。

それでは、実際に見てみましょう。
U593
小泉線運用に入り、館林駅停車中の3152編成です。

U594
車内の仕切りは、このように、運転台側のみ段がついた格好になっています。乗務員室直後の吊り手は車掌室側のみで、運転台側にはついていません。8000系拡張車も全く同じ形態です。

U597
車外から見ると、床面にある電動機点検用のフタも、運転台側のみ短くなっているのがわかります。この角度から見ると、運転室の張り出しが目立ちます。旧型国電の半室運転台をちょっと思い起こさせますね。

U596
ちなみに客室側。側窓や扉の数を除いて、8000系非冷房車と見付はほぼ同じです。

しかし、8000系の拡張運転台時代は長くありませんでした。昭和46年に登場した冷房車8156編成からは、乗務員室全体を1333ミリの奥行きにして再びフラットに戻し、昭和48年から開始された冷房改造の際に、この仕様に統一させたからです。冷房改造は昭和58年まで続き、8000系拡張運転台の段つき仕切りは姿を消しました。

Tochi835
その影響は3050系にも及んでいます。更新の最終段階では写真の3563編成のように、1333ミリに統一されてフラットな仕切りになりました。

運転台拡張といえば、こういう改造車もありました。
83017865
昭和45年に起きた、ダンプカーとの踏切衝突事故「花崎事故」で被災したモハ7865を復旧させた際に8000系と同じ高運転台とし、合わせて運転台を拡張しています。この写真の反対側になりますが、乗務員室すぐ後ろの客窓をつぶし、運転台側の乗務員室扉を下げてありました。


2015年12月18日 (金)

鉄コレ東武3050系

もう昨日ですね。鉄コレ事業者限定、東武3000系/3050系が発売になりました。
「東武ファンフェスタ」の先行販売では、私は3000系しか買わなかったものですから、3050系を浅草駅の売店で買ってきましたよ。

3050系は、それまでのデッカー制御器に代わり、昭和8(1933)年から導入した日立の電動カム式制御器(PR)を使用した電車を更新したもので、特急車デハ10系が戦時中にいったん全車普通車に格下げになり、戦後特急車として復活しなかったグループ、デハ10系の普通車として増備されたグループ、そして、デハ10系のうち特急車として復活したグループは制御器を国鉄CS-5に振り替えましたので、そこから外されたPR制御器を玉突きで装備した電車群が該当します。更新前の車号でいえば、モハの百位の数字が「4」が更新されたのが3050系です(3000系のデッカー制御器は「2」です)。

R0025623
早速鉄コレを見てみましょう。モハ3550はKS-31L台車を履いています。3000系モハと同じですが、形態的にはKS-33Lのほうが似ていますね。

R0025621
クハ3650です。こちらはTR-11を装備しています。更新前のクハは木造客車の鋼体化が多かったので、実際にも多かった組み合わせです。

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3000系(下)と比べてみます。相違点は3050系では運転室を拡大しているので、乗務員室扉が後ろに下がっています。また、3000系では3連の客室窓の上端左右が丸みを帯びていますが、3050系では丸みがありません。もう少し丸みをつけてもいいのではないかと思うのですが、ガラスパーツが3050と共有されているため、この程度が精一杯なのだと思われます。

また、3050系新塗装にある乗務員室扉後ろの「乗務員室立ち入り禁止」表示は、3000系セージ塗装、3050系セージ塗装にはありません。これは印刷忘れではなく、実際にセージ時代の3000系列には入っていなかったのです。当時8000系には入っておりましたので、なぜなのか、少々計りかねるところがあります。

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前回、3000系のご紹介の時は気付かなかったのですが、セージ塗装と新塗装でクハのホロが作り分けられています。セージ時代はホロの両脇のマジックハンドのような支えや、下部両脇に張り出した、ホロをつなぐときに相手の車のホロ枠に食い込まないように配慮された繭状の板が表現されているのですが、昭和50年代なかば以降は、それらがなくなったスッキリした外観のホロに取り替えられます。その違いが表現されているのです。驚きましたね。

R0025620

では、実物の台車と床下機器を見てみましょう。
Tochi944
モハ3557です。前回のモハ3125と反対側から見ています。機器配置は基本的に同じです。
この車は昭和17(1942)年製のデハ1204、デハ10系の一般車版であるデハ12系の一両として生まれ、台車は日本車輌D-18を履いています。鉄コレ台車ですと「U型」と称する台車に似ているものがありますね。中央に吊られている制御器カバーには日立のマークが浮き出しています。
反対側には抵抗器が吊られていますが、3000系が4個であるのに対し、3050系は5個になっています。

Tochi945
クハ3657は、もとは大正13年に造られた木造客車ホハ1です。昭和8年、木造車体のまま電車用の引き通し線を装備して、モハ・クハの真ん中に挟まるサハ42となりました。昭和25年、鋼体化されてサハ73に、昭和36年、運転台がついてクハ544となりました。台車は客車時代からのTR-11です。

左側に蓄電池箱が2つついていますが、左側は種車の木製のものが流用されています。右端にはMGが吊られています。非冷房なので小型なものですね。

3050系は一部は野田線に、大部分は更新前に所属していた館林検修区に配置され、地味なローカル輸送に終始しました。

2015年12月17日 (木)

鉄コレ東武3000系の、台車の話

Tochi831
暑い夏。窓をいっぱいに開けた電車。野田線で撮った、私が気に入っている3000系の写真。
だけど、ひまわりに隠れて、3000系っぽさが出ていないですね。

東武3000系は、昭和2(1927)年〜4年にかけて造られた、デハ4〜7型と呼ばれ、戦後は3210形と改番されたイングリッシュ・エレクトリック(旧デッカー社)製「デッカータイプ」と呼ばれる制御器(東武で使われたのは、すべてライセンス生産の国産制御器)が使われた電動車と、同時期に作られた付随車、あるいは木造客車を戦前・戦後に鋼体化した付随車を、昭和39(1964)年から8000系とほぼ同じ構造の、18メートル級3扉の軽量ボディーを台枠から新造して車体更新した電車です。

Gr033725
「デッカー」といえば、コレ。小さな一段窓が並び、車体裾が切れ上がっていて台枠が見えるクラシカルなスタイル。両運転台で、非貫通の3枚窓の正面が有名ですが、こちらは貫通扉つきの副運転台側。運転台は貫通路をはさんで右側にあるのが特徴です。この、モハ3227(昭和3年日車製)が更新されて、

Tochi830
この車、モハ3125になりました。流用されたのは台車、主電動機(DK91/B、97kW)、主制御器、主抵抗器、電動空気圧縮機(CP)などに限られており、この写真からも、それ以外の機器箱が新しいのがおわかりになると思います。制御器が4つのモーターを制御する(1C4M)ので、2両固定の場合はモハ+クハで一単位、クハには電動発電機(MG)とCPが積まれています。4両固定ではモハ+サハ+モハ+クハのうちモハ+サハ、モハ+クハでそれぞれ一単位を構成していて、東武でいえば、モハ1両に主要機器を集中させていた旧型電車スタイルから、モハ・クハを一単位の固定編成として機器を分散させた、モハ7820系の機器構成とほぼ同じといえます。

しかし、車体や機器類が新しくなった以外は、種車の台車、電動機、車体中央にブレーキシリンダを置いて、テコとロッドで両台車にブレーキ力を伝える車体ブレーキなど、基本的な機構と性能は旧型車とまったく同じ。ほぼ同時代に生まれた小田急4000形や京王5070形など、台車を含めた新しいディメンションの一部に旧車の電動機が使われて吊り掛け駆動になっているのとはまったく異なり、車体だけが新しくなった「更新車」なのです。

3000系列は他に「PR」と呼ばれる日立製制御器を搭載した3050系、国鉄CS-5制御器を搭載した3070系がありますが、機器配置は基本的に標準化されています。外観を際立たせているのは台車の違いで、まさに大正期から戦後の技術革新前夜までの私鉄台車博物館の様相を呈していました。

きょうは、鉄道コレクションの事業者限定3000系、3050系の発売日です。それを記念して、鉄コレの台車を解説してみます。

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モハ3100型とモハ3300型が履く住友金属の釣合梁(イコライザ)鋳鋼台車KS-31Lです。昭和30年代までその名を轟かせた「鋳鋼台車の住金」のルーツともいえる台車です。
同じ形式名が私鉄各社に存在しますが、実は各社で部材の形がやや異なっており、東武の同型台車の中でも微妙な違いがあります。この台車は鉄コレの小田急1600用に作られたと記憶していますが、枕バネの上の台車側梁が少し厚めに表現されているため、阪急900型のKS-33Lに見えてしまうのが残念。台車枠をほっそりさせて、軸バネをもう2巻き多くするとバッチリなんだけどな……。

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サハ3200が履いているのは、TR-11です。東武では、昭和16(1941)年から大正時代の木造客車を鋼体化してクハ・サハにしましたが、その際種車の客車についていたものと、さらに旧い短軸台車を置き換えるために、戦後国鉄から大量に払い下げを受けて履き替えたものとがあります。標準軌への改造を見越した長軸台車なので幅が広く、「球山形鋼」という船舶用の形鋼を天地逆さに使った、分厚い台車側梁が特徴で、乗り心地が非常に堅い台車でした。

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クハ3400は、KS-30Lを履いています。これは、デッカーモハ3227の一族よりもさらに一世代旧い大正15年製の電車で、車体や台車は電車のスタイルですが、当初は蒸気機関車に牽かれる客車として造られました。戦後はモハ2200型と呼ばれていました。戦後、運輸省から20メートル4扉の63系電車が割り当てられた際にその代償として地方私鉄に譲渡された車が多いので、少数派の台車です。3000系廃車の際にも早期に淘汰されました。初期ボールドウィン・タイプの電車用イコライザ台車の特徴である、華奢な軸バネが2本ずつ並ぶのがちゃんと再現されているのがたまりません。この台車も、鉄コレの地方私鉄電車の流用だったと思います。

3000系の前身であった「デッカー」系列は、昭和初期の当時としては破格の、80両近くの電動車が一気に新製されました。そんな事情から、モハはほとんどKS-31L台車に統一されていますが、サハ・クハには非常に多彩な台車が使われていました。鉄コレに使われている台車は、ほんの一例に過ぎないのです。


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