2017年9月 5日 (火)

イヌゲージ鉄犬さんとの飲み

久しぶりに二子新地で飲みました。
鉄犬さん改め「コワイエ・ピロティ先生」のところのこちらの記事の、私側からの視点です。
最後はロックバンド「Kiss」の物真似をお互いにやって別れました。

本編のほうは、次に「東武快速史」をやろうと準備中です。

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2017年4月23日 (日)

鉄コレ箱写真の謎⑥(終)戦後日本の技術力と高性能車の夜明け

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*わが国で最初の量産直角カルダン車としてデビューした5720形。東芝TT-3形台車は、不調のためクハに振り替えられて、高崎線吹上駅近くのレストラン「マスタード・シード」に現存しています。

 長いこと引っ張ってきたこのシリーズも、いよいよ最終回です。
 一連のエントリの本来のテーマである、「直角カルダンで活躍した東武5720型が、なぜイコライザ台車を履いているのか」、その謎を解くカギが、この「第三の理由」に関係してくるのです。

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*わが国初の直角カルダン車として1953(昭和28)年にデビューしたはずの5720形が、なぜつりかけ台車を履いている写真が残っているのか?というのがテーマでした。

 『鉄道ピクトリアル』2008年1月号増刊「東武鉄道特集」では、西新井工場に長く勤務された諏訪部直方さんの「西新井工場と私の昔語り」が掲載されています。諏訪部さんは駆動系の保守の仕事を担当され、入社直後の戦後の混乱期、戦中・戦後の物資不足のため絶縁不良でフラシオーバーが続出したモーター巻線の巻き替えの苦労など、興味深い話が満載なのですが、5720型の直角カルダンの保守に手を焼いたエピソードも述べられています。

「これがなかなかの難物で、プロペラ軸ニードル軸受破損による脱落、まがり歯かさ歯車の浸炭層剥離、MMのフラッシュオーバなどで手を焼きました。特急車でありダイヤに穴を開けられないので修繕に出していた部品の一部を転用するために、休日夜、府中工場までタクシーを飛ばして持ち帰り、徹夜で作業したこともありました。その後、汽車会社の直角カルダンKS105を58形で使用しましたがこれもうまくいかず、結局ものにならなかったのは残念なことでした」

 わが国の工業技術は戦争の停滞もあって欧米諸国から大きく立ち遅れていました。鋼の生産技術においても、鉄の精錬・焼き入れ技術が十分でなく、大きな負荷がかかると割れるなどの不具合が多発していました。スパイラルギア(ねじり傘歯車)の歯を切り出す国産の歯切り盤の精度も低く、5720型の直角カルダンは、この両方の理由が相まって故障が続発したものと思われます。この頃はモーターの絶縁不良も根絶できず、1951(昭和26)年に登場したつりかけの5700型に装備されていた電気ブレーキは、試運転でフラシオーバーを続出させ、結局使われないことになりました。1954年に製造された日光軌道線用連接車200型にも、急勾配を下ることから電気ブレーキが装備されていましたが、こちらも不具合で実用にはなりませんでした。

 名鉄の技術者として7000型「パノラマカー」の開発を統括し、大井川鉄道に転じて蒸気機関車の動態保存を実現した白井昭さんは、当時の生産技術について、こう証言します。「直角カルダンやクレーン用の傘歯車など大きな負荷のかかる歯車は、まだ日本では作れる段階になかった。国産化が可能になったのは昭和30年代に入ってからのこと」。

 お守りをする立場の諏訪部さんが苦労を重ねられた直角カルダンの故障は、まさに推進軸や歯車に使われた鋼の強度が、必要とされたトルクに不足であったことがもたらしたものだったのです。

 国産技術による直角カルダンは。5720形の翌年、1954年に登場した東急5000型で実用化に成功したと評価できるでしょう。阪神は、1958年に登場したジェットカー5000型で、シカゴ高架鉄道「L」用のPCCカー6000系の要素を取り入れますが、1956年から始まった在来車を使った試験には、ウエスチングハウス製のねじり傘歯車を使っています。

 それでは、「箱写真」種明かしを始めましょう。
 故障が続発した5720型ですが、諏訪部さんが指摘したとおり、花形の特急車両が故障のたびに運用離脱というわけにいかず、分解整備が必要な故障が起こるたび、につりかけ式のイコライザ台車に履き替えが行われました。その出どころは、1951年に登場したクハ550型を電装したモハ5324と5325です。この2両は、5720型登場と同じく1953年に、東洋電機製の直角カルダン機構を装備した汽車会社製のKS-105台車と換装しており、その際に捻出されたKS33L台車です(花上嘉成「5700系電車」東武電車研究会会誌『と〜ぶ』7号)。モーターも5700型と同じTDK-528、歯車比も3.44であり、つりかけの5700系と性能を揃えることができたのです。

 ちなみに、5800形に導入された汽車会社の直角カルダンも不調で、改良を繰り返したものの結局調子が出ず、1961年(モハ5721)と1966年(モハ5720→モハ5704)にクハ700型が装備していたFS106台車と振り替え、つりかけに戻されました。

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*1965(昭和40)年にクハ702と台車交換して、つりかけ式FS-106に履き替えたモハ5704(旧5720)。クハはそのままTT-3台車を履く。

 東武5720形は、わが国の電車の高性能化の「失敗例」に挙げられます。大正初期において、アメリカの電鉄技術のデッドコピーはかろうじてできたものの、高回転電動機を使った分離駆動を実現させるために基幹部品をきちんと作る技術がなければ、欧米のキャッチアップはできない、ということを思い知らされた出来事であったのだろうと思います。

 一枚の写真から、いろいろと読めることがあるものですね。


2017年4月15日 (土)

鉄コレ箱写真の謎⑤「昭和19年、運輸通信省の奇妙な命令」

 アメリカで1920年代末から展開された駆動装置の技術革新、それがわが国に波及されなかった理由について考えてきました。

 日中戦争が始まり、アメリカ・イギリスなどは敵性国家となり、ここで電鉄技術の最新情報は途絶えてしまいます。ですから、「わが国における分離駆動の導入は戦後になってから」が正史です。
 ところが、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年の日本で、分離駆動への動きがひょっこり顔を出します。

「資材節減電車を作るため、市街電車用動力伝達方式を共同して研究・試作せよ」

 1938(昭和13)年の国家総動員法を根拠にした「総動員試験研究令」として運輸通信省(現在の国土交通省)から技術開発の課題が発布されました。名宛人は車両メーカー、電機品メーカーと思われますが、その中に「高速電動機を使った分離駆動の電車の開発」というテーマが入っていたのです。いったい、どういうわけでしょう?

 その理由は、いまとなってはわかりませんが、2つの可能性が考えられると思います。当時の総力戦体制の中では軍需産業への輸送が最優先課題とされ、工業都市の市内電車は、勤労動員でふくれ上がる工場労働者輸送に追われていました。たとえば、航空機産業を中心に軍需工場への通勤輸送を担っていた名古屋市電では、連接車2600型の中間にもう1車体を増やして、3連接車を作る計画を立てていました(実現前に終戦を迎えています)。その打開がひとつ。
 また、このころは電車用の低速電動機の製造や保守が資材の逼迫で難しくなっており、汎用の高回転電動機を電車の駆動装置に利用しようという発想だったのではないかと思われます。いずれにせよ、運輸官僚の中に、分離駆動の技術動向をつかんでいた人物がいたということを表しています。

 戦局も末期になってから泥縄式に出されたようにも思えるこの技術課題がどうなったのか、それはわかりません。実質的には何も進展しなかったのではないかと思われます。

 戦争が終わると、高性能車へつながる技術開発がわが国でも盛んになり、分離駆動への取り組みが一気に進みます。いよいよ、鉄コレ1700系(原形)の箱写真に写っていた、直角カルダン台車を履いているはずの東武5720形の台車が、なぜイコライザ式のつりかけ台車を履いていたのかという問題の謎解きにもなっていきます。

2017年4月 7日 (金)

鉄コレ箱写真の謎④「PCCカーはなぜ普及しなかったか」

 1920年代にアメリカで始まった駆動方式の革命。わが国に波及するまで、ちょうど20年の時間が必要でした。どうしてなのでしょうか。

 アメリカ・イギリス・ドイツの電鉄技術先進国の情報は、リアルタイムで日本の電鉄会社に伝わっていたはずです。GE、WH、EE、AEGなど各国の電機品メーカーは、売り込みのためにカタログや新技術のレビュー雑誌を各電鉄会社に送っていましたので、最新技術の動向を知ることができたはずです。
 そのことを裏付ける記事を見つけました。1928(昭和3)年の雑誌『オーム』7月号、8月号に分載された論文「電鉄用高速度電動機」は、米国ウエスチングハウス社の新技術であるWN駆動の紹介が掲載されていました。筆者はウエスチングハウスのライセンス生産を行っていた三菱電機の社員工藤宗眞氏です。
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 WN駆動は、台車枠に装架したモーターの軸と、車軸の大歯車と噛み合うピニオンギア(小歯車)軸との間に可撓継手を入れることで振動による変位を吸収し、伝導ロスと騒音を少なくし、モーターの重量を枕バネの上にすることで線路への衝撃を減らした分離駆動の一種です。
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この段階で、分離駆動の情報は日本までもたらされていたことがはっきりしました。ではなぜ普及しなかったのか。2つの理由があると考えられます。

 その第一は、わが国の技術力の水準にありました。初期の電車用機器はGEと東芝、WHと日立のライセンス契約関係で移入されていましたが、それぞれ国産化が図られ、EEは東洋電機を介して日本国内生産を行っていました。技術水準としては必ずしも高くなく、国鉄が大正の初めにGEのMシリーズをもとに制式化したCSシリーズの改良の途上であるなど、一時代前の技術の消化に取り組んでいた時代であり、また分離駆動に使われる高速電動機の絶縁技術が追いついていなかったという事情があります。

 そして第二に、当時の日本の電車が低速であり、高加減速性能をもつPCCカーのニーズがなかったことが挙げられます。
 わが国でPCCカーを導入しようと初めて動いたのは阪神電鉄であったと思われます。阪神は開業時、広軌高速電車を主張した三崎省三(のち技師長)をアメリカに視察に出し、インターアーバンの理想型を探らせるという先見性を持っていました。後に社長となる野田誠三氏は阪神タイガースの球団社長として知られ、野球殿堂入りもしていますが、実は技術者出身であり、1935(昭和10)年ごろのアメリカ視察でPCCカーを検討しています。
 その成果は実際に活かされることはありませんでしたが、1937年に登場した阪神国道線の「金魚鉢」70型には、東芝製の油圧制御による間接制御器が導入されており、これが研究成果の片鱗だったのかも知れません。

 しかし、この年日中戦争が起こり、敵性国家であるアメリカや欧米諸国との技術情報の交換が途絶し、わが国の電鉄技術は停滞期に入ります。ところが太平洋戦争中、ひょっくりと分離駆動が顔を出してくるのです。いったい、どういうことなのでしょうか。(つづく)


2017年3月25日 (土)

鉄コレ箱写真の謎③「PCC カーと直角カルダン」

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 Cederさんのご厚意で、PCCカーの図面をお寄せいただきました。PCCカーは、アメリカの路面電車事業者が集まって作られた委員会で、「自動車に対抗できる路面電車を」というテーマで共同開発を行ったものです。
 その結果開発されたPCCカーは、駆動装置、制御装置、ブレーキ装置のみならず、台車や流線型の車体に至るまで、全ての要素に革新がもたらされたことがおわかりかと思います。図面には「A7CLASS」とあり、各事業者は自社に合った設計をレディメイド的に使用することができました。

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 この都電5500形は、現在荒川車庫に保存されて公開されていますが、PPCカーの機器のみならず、車体、すなわち全体に大きな影響を受けていることがよくわかると思います。

 モーターの小歯車と車軸の大歯車を直接かみ合わせるつりかけ式を「直接駆動」と呼ぶのに対して、モーターを台車枠からバネ吊りにして車軸から分離し、ユニバーサルジョイントを介して、密閉したギアボックスの中で、伝導効率のよいヘリカルギアあるいはハイポイドギア(ねじり傘歯車)に動力を伝達する直角カルダン方式と、ほぼ同時期に生まれたWN駆動(台車枠に装架したモーター軸とピニオンギア(小歯車)軸の間に変位を許容するWN継手を入れ、車軸の大歯車とピニオンギアをすき間なくかみ合わせて伝導ロスと騒音をなくした)は「分離駆動」と呼ばれました。

 直角カルダン方式は、競争相手と目された自動車の駆動方式をヒントにした機構であると言われています。つりかけ式が、軸上のモーターが振動で変位するのをすき間をもたせた歯車の噛み合わせをグリースで潤滑させるのに対して、歯車を密着させ、しかも油を満たした密閉のギアボックスの中で駆動させる直角カルダンは、伝動効率がよく、また騒音も低いメリットがありました。

 しかし、アメリカで1930年代に直角カルダンとWN駆動という分離駆動方式が普及して技術革新が成ったのに対し、日本でこのレベルに達したのは戦後しばらく経ってからのことでした。アメリカのGEと提携関係にあった東芝の直角カルダン試作車が小田急を走った「相武台実験」が1951年、翌年に試作国鉄キハ44000形、1953年には東武5720形が初の直角カルダンを採用した量産営業車として登場、PCCカーのライセンスを購入して都電5500形が作られたのが1954年。WN駆動を採用した営団丸ノ内線300形が1953年、翌年には東急5000形が登場しました。

 なぜ、分離駆動方式がすぐ日本に波及しなかったのでしょうか。(つづく)


2017年3月 8日 (水)

鉄コレ箱写真の謎②「5720型直角カルダンのルーツを求めて」

 鉄コレ1700系(原形)の箱に印刷されている、直角カルダンでデビューしたはずのモハ5720型の台車が、つりかけイコライザ台車に換装されていたお話。写真の謎解きをする前に、まず直角カルダンとはなにか、というお話をしましょう。

 つりかけ式駆動は、車軸の上にモーターを乗せ、モーターの軸にはめられたピニオンギア(小歯車)と車軸の大歯車を直接噛み合わせていました。シンプルで故障の少ない機構ですが、走行すると台車は振動しますから、ギアの噛み合わせにすき間を与える必要があり、それが大きな駆動音(いわゆるつりかけ音というやつですね)となっていたのです。Wikipediaの解説をこちらに貼り付けておきます。

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東武7800系→5050系に使われていたTDK-544型モーター。手前のU字形の溝が車軸に乗ります。

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TDK-544型モーターの軸に取り付けられているピニオンギア。

 この欠点を改良しようという動きが、1920年代のアメリカで生まれました。当時全盛期を迎えていた路面電車の近代化を狙って開発されたPPCカーです。スムーズな加速を得るための100段にも及ぶ超多段制御器、そして直角カルダン駆動、弾性車輪を用いた台車、効きのよい電磁直通ブレーキ、レール吸着ブレーキ、ワンハンドルマスコンなど、電鉄技術の画期といえる車両でした。

(Cederさん、ここにPCCカーの写真を入れたいと思います。適当な写真を頂けないでしょうか?(笑))

 直角カルダンは、つりかけ式がモーターを車軸の上、すなわち枕木方向に置くのに対して、小型モーターをレール方向に置いて、自在継手を介して軸につけた傘歯車を車軸に取り付けた傘歯車とかみ合わせて駆動させる方式です。Wikipediaの解説をこちらに貼り付けておきます。

 自在継手が振動を吸収するので、傘歯車は変位することなくぴったりと噛み合います。それゆえ、つりかけ式より伝導効率が高く、静かな走行音が得られるのです。

 次回は、アメリカで1920年代に爆発的に普及した直角カルダンを含めた新しい電車のフォーメーションが、なぜ日本で取り入れられるのが遅れたかについてお話しましょう。(つづく)

2017年3月 6日 (月)

鉄コレ「東武1700系セットA」箱写真の謎①「57の台車が違う」

 ちょっと前のお話をしますが、
 みなさん、お気付きでしたでしょうか。

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 昨年12月に発売された、鉄コレ事業者版東武1700系。登場時、冷房改造、即窓固定・前面強化・ヘッドライトシールドビーム化の3種類が発売されました。

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 なかなかよい出来だと思いますが、実はこれからするのは「箱」の話です。

 新製当時の原形車のパッケージ写真に、ものすごく珍しいものが写っているのです。
 フタを開いて左下、新製されて西新井工場に到着したてで、整備にかかろうというばかりの1700形が写っています(花上嘉成東武博物館名誉館長撮影の写真と思われます)。実は、これからするお話は、1700ではありません。

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 その後ろに、旧型車が写っているのが見えます。窓割から先代の特急車、5700系であることが明らかですが、履いている台車にご注目ください。57形が使っていないはずのイコライザ台車。いったい、どういうことなのでしょうか?

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……実はこの写真、はからずも戦後電鉄技術の試行錯誤を物語る「貴重な証人」なのです。

 1951(昭和26)年に戦後初の特急車として登場した流線型ネコひげの5700型と、前面が半流線型の5710型がデビューします。駆動方式はつりかけ式、台車はモハ・クハとも住友金属(当時はGHQの財閥解体の指示で社名が扶桑金属)FS-106ゲルリッツ台車を装備していました。

 1953(昭和28年)には、新たに5720型が登場します。半流線型の車体は5710型と同じですが、走り装置は営業用としては日本初の直角カルダンを装備した東芝TT-3型台車が採用されました。鉄コレパッケージの写真は、この5720型と思われます。

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 しかし、本来5720型が履く台車は、上の写真のように、湘南電車のDT16によく似た軸バネ式のTT-3です。これです。では、なぜパッケージの写真ではイコライザ台車を履いていたのでしょうか? そもそもなぜ、私はこれを5720型と断定できるのでしょうか?

 5720型の、日本最初期の直角カルダンは故障が相次ぎ、動力機構を分解しての修理が続いていました。しかし、当時は車両に余裕がなく、車両ごとの運用離脱ができない。そこで、古いつりかけ式イコライザ台車を履いて営業運転に出ていた、おそらくこれが唯一残された写真ではないかと思われます。

 故障はどうして相次いだのか、このイコライザ台車の出所はどこか? これから解き明かしていきたいと思います。(つづく)


2017年2月11日 (土)

東武電機のデッキ端梁警戒色は車体色か黒か

鉄道コレクションの東武ED5080が発売になって以来、ネットで「デッキ端梁の警戒色はイエローと車体色なのに、製品ではイエローと黒に塗り分けられている。間違いだ」という意見が散見されます。

たしかに、電機の活躍が最後の平成に入ってからの頃は、車体色のぶどう色2号とイエローの塗り分けでした。しかし、昭和40年代〜50年代は、黒と黄色に塗り分けられていたんじゃないかな〜という記憶があります。
あんまりカラーで撮っていないのですが、昔の写真を引っ張り出してみました。

まずこれ。

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1983年1月に撮影したED4021です。このとき廃車されたばかりで、杉戸機関区に集められた姿。う〜ん、車体色と黄の組み合わせに見えるが……

次。東上線のED5015。
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1983年3月の撮影です。これは黒に見えると思いますが、どうでしょうか。

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東武博物館に収蔵後。1990年に収蔵される前に再塗装が行われています。これは明らかに黒+黄に塗られています。

東武の電機の塗色はぶどう色2号ということになっていますが、国鉄のそれよりも黒が強く、ぶどう色1号に近いのではないかと思うぐらいで、なかなか黒と車体色の判別が難しい。『東武の鉄道車両90年のあゆみ 写真集』でも黒と車体色が混在しているように見えます。
ED5015の現役時代の写真の車体色と端梁警戒色部の色相をネットの判定サービスでチェックしてみるとやはり異なる色相として検出されました。ただ、あくまで参考値程度にとどめておくべきかなと考えています。

しかし、

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これはJ・W・ヒギンズさんの『発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 東日本私鉄編』(JTBパブリッシング)。コダクロームで撮影された、非常に色再現性の高い一枚ですが、これは明らかに黒+黄ですね。68ページに掲載されているのでご参照ください。
「昭和30年代末から40年代にかけては黒+黄。50年代後半から電機が消えた平成にかけては車体色+黄」ということではなかったのではないかと考えます。

最後に。

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これは貨物列車最末期の2003年に館林機関区で私が撮った写真です。悪天候でコンディションが悪いというハンデがあるのですが、これは黒+黄ではないかなあ……。各所を急いで撮る必要があったので、じっくり吟味している時間がなかったのが悔やまれます。

東武ED5010(後期)のパンタカギ外しを杉戸高野台の保存機に見る

大変ごぶさたをいたしました。

2つ前のエントリのコメント欄で、「もと東武沿線ファン」さんからこんなコメントをいただいていました。

>鉄コレの5010後期型の前照灯後ろから出ているパンタ引き棒も、
>実は間違っているんですよ笑、前期は見ての通り前照灯の真後ろ
>から出てますが、後期型は、助手がわにありました四角い箱から
>引き棒が出ていました。

これは確認しなければならない。
ちなみに、パンタ引き棒とは、通常はスイッチ操作でパンタグラフの上昇・下降に用いているエアーが失われているとき(長期留置後など)に、パンタグラフを手動で上げる際に使うリンクの一部を構成するものです。

というわけで、杉戸高野台の西口広場近くの公園に保存されているED5020を見に行きました。

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手前が1位側(浅草・池袋方)です。こんな具合に、かなり荒廃しています。屋根上をどうやって見るのか? よじのぼると問題になりそうだし、それを見越してか正面の扉左脇にあったステップは撤去されてしまっています。


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そこで、2メートル30センチ長の自撮り棒を用意しました(笑)。右端に自由雲台をつけ、コンパクトカメラのリコーGRをねじ込んで、インターバル撮影を仕掛け、ノーファインダーで自撮り棒を差し上げて何とか撮ろうという作戦です(笑)。現行機種のGR2だとスマホに画像を転送してリモートコントロールで撮影できるのですが。ちなみに、ベンチの下の空き缶を捨てたのは私ではありません。写真を撮っているときには気がつきませんでした。

では早速。

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1位側からパンタを見ています。センターから左、助手側の箱の右側面に穴が開いています。ここからワイヤーが伸び、右側の○で囲んだ直角のリンクにつながっています。リンクにワイヤーの切れ端が残っていますね。
運転台で紐を下方向に引くと、滑車で方向を変えたワイヤーが枕木方向左向きにリンクを引き、直角のリンクが今度は線路方向に手前に引く力となってパンタのカギを外してパンタを上げる、という仕組みになっています。

また、パンタ枠の右側に2本、パンタの上昇下降を司る空気管が車体に入っているのが見えます。木製のランボードが朽ちてしまい、逆に配管の入り方がよく見えます。

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今度は2位側(日光・寄居側)から見ます。パンタカギ外しは全く同じ構造です。
パンタの右側、空気管とともに母線(高圧管)が入っているのが見えます。空気管は点対称ですが、母線は線対称(山側・西側)に入っていることがわかります。空気管・母線の配置は前期型と同じですね。
また、正面雨どい手前に小さな穴が開いていますが、ここには汽笛が取り付けられていました。いまでは失われてしまっています。汽笛は国鉄機関車のように真鍮磨きだしではなく、車体色に塗られていました。

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もう一度1位側に戻り、パンタの左側を見ます。こちらは母線のみが引き込まれているのがわかります。

保存状態としてはけっこう悲惨ですが、屋根上の記録をとどめることができました。
もと東武沿線ファンさんのおっしゃる通りでした。どうもありがとうございました。
お返事が遅くなってごめんなさい。

2016年7月 6日 (水)

東武ED5010、さらなる前期・後期のディテール違い(パンタカギ外し編)

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東上線貨物廃止直前、さよならヘッドマークをつけて貨物列車の先頭に立つED5010後期車ED5017。前回のエントリではED5015を掲載しましたが、坂戸機関区所属の前期車ED5012〜15が廃車されるのと入れ替わりにED5016、17が杉戸機関区から転属しました。最後に残ったのが下板橋の秩父セメント生コン工場へのセメント列車で、セメントばら積みのホキ5700と、袋詰めセメントを積んだ秩父鉄道のワキ800と秩父セメント私有車のテキ200が1両ずつ連結されていました。

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大山駅を通過する下り返空列車。ED5016が先頭に立っています。

さて、「もと東武沿線ファン」さんから、ふたたびコメントをいただきました。
今度は、パンタグラフのカギを外して上昇させるリンクの出方についてです。

>前期は見ての通り前照灯の真後ろから出てますが、
>後期型は、助手側にありました。
>四角い箱から引き棒が出ていました。

まず前期。


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赤丸の中です。室内で運転室後ろの引き紐を下げると、おそらく箱の上部にある軸が回転して、箱の外についた直角のリンクが引き棒を手前に引くことでパンタのフックが倒され、パンタが上昇する仕掛けです。後期車はどうなのか、さきほどのED5017の写真をもう一度見ると、

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確かに助手側に箱が移されています。

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鉄コレのモールドを見ますと、真ん中に「箱」がモールドされていて、どうも博物館の前期型を参考にしたようですね。場所的には青丸の位置ぐらいでしょうか。でも、Nではほとんど気にならないところですね。

ところで、パンタグラフのフックは、ちょうど台枠の中心についています。
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この写真は、彦根の近江鉄道ミュージアムのイベントで、PS13パンタの構造を教えていただいたときのもので、フックの付き方がおわかりになると思います。東武ED5010前期型のように車体中心に引き紐があれば、まっすぐのリンクでいいのですが、後期型のように助手側に引き紐が寄っていると、屋根上に軸を1本つけて、車体中心に引き棒が来るようにしているのではないかと考えられます。私はそのあたりのディテールがわかる写真を撮っていないので、そこを解明する方法をいま、考えているところです。

細かいことなんですけどね。
「もと東武沿線ファン」さん、重ねましてありがとうございます!


«【訂正】東武ED5010前期型と後期型では、避雷器の位置が異なります

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