ウィキリークスの時代に、そして、中東の独裁体制が革命で崩れていく時代に。
まさに「いま」見て面白い映画である。
4世紀、ローマ帝国が支配していたエジプト・アレクサンドリア。アレクサンドリア図書館長を父にもつ女性科学者ヒュパティアは、学生たちに慕われる教育者として図書館で哲学や天文学の授業を行うかたわら、天文学者として、いままでの観念をくつがえし、ある真理に到達するための研究を行っている。
「真理」を尊ぶヒュパティアだが、彼女が属している、それまで権勢をふるっていたローマ帝国のエジプトが信仰していた多神教に対し、一神教であるユダヤ教と原始キリスト教がアレクサンドリアで台頭する。特に原始キリスト教は広場(この映画の原題は、広場を意味する"AGORA"だ)で「奇跡」を見せて多くの信者を獲得、それを快く思わない多神教徒がちょっかいを出したのをきっかけに大規模な衝突に発展した。
キリスト教徒であった東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世は、非キリスト教の施設の破壊を許可し、アレクサンドリア図書館はキリスト教徒の手に落ち、略奪と放火の中で、ヒュパティアたちは一転追われる身になった。
それでも研究を続け、ある真理にたどりつくヒュパティアだったが、同時に迫害のときが訪れた......。
アレクサンドリアを舞台にした多神教徒と原始キリスト教の闘いを描く一大スペクタクルに、ヒュパティアに求愛していたかつての教え子と、やはり好意を寄せていたヒュパティア一家の奴隷がからんでのロマンス。超大型歴史叙事詩である。ヒュパティアは気高く、美しい。求婚する教え子に「自分は女である」ことを見せつけるシーンはなかなかの驚きだ(これは史実であるという)。それだけ見ても面白い。
しかし、アレハンドロ・アメナーバル監督は、ある大胆な仮説をこの映画の中心に据えた。これが、この映画を現代に鋭い刃を突きつける迫力のあるものとしている。
もし、歴史上の事実が、別の時代(あるいは世界)のことだったら......
この手法を使った作品として、たとえば横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)がある。現実にあった日航ジャンボ機墜落事故に遭遇する架空の地方新聞社(つまり、パラレルワールド)を舞台に設定することで、この小説は、墜落現場の特定、御巣鷹山での生存者発見、遺族の遺体確認、事故原因追究という現実と同じ時間軸を使って、新聞記者たちの活躍と葛藤、遺族が情報を求めて新聞社に来ることで気づく「読者の求めるもの」、そしてスクープに迫る執念と挫折を描いている(ちなみに佐藤浩一主演のNHKドラマ、堤真一主演の映画があるが、圧倒的に前者がおすすめだ)。同時代を生きた読者、あるいは視聴者は実際に何が起きたか知っているので、よりリアルな感覚をもって記者たちの世界に没入したのである。
アメナーバル監督は、これと同じ手法を使って、実際にはわからないヒュパティアの研究を「あるもの」に設定するという荒技に出た。この「あるもの」があまりにも現在では当然の「真理」であるので、観客はヒュパティアの視線に寄り添ってこの映画を見ることになる。言葉を変えれば、アメナーバル監督はこの仕掛けで、映画の中に出てくる神々とは違う「真理という神」の視点を観客に与えた。現に、それを暗示するショットが挿入されている。そうすることで、観客は対立する宗教を相対的に眺める視点を得て、スペクタクルの部分である多神教と原始キリスト教の争い、そしてキリスト教徒による迫害を中立的な眼で眺めることができる。これはわれわれ日本人にはピンと来ないけれど、ヨーロッパのキリスト教社会においては相当大胆な試みだといえよう。
そんな視点からは、大きな歴史のうねりと、その中で翻弄される個人がより際立って見える。「真理」に迫ろうとするヒュパティア(レイチェル・ワイズ)はますます気高く美しく、求婚したこともある教え子で後にアレクサンドリア長官となるオレステス(オスカー・アイザック)の俗の世界に身を浸しながら聖なるものを守ろうとする苦闘、やはり愛を告白しながら受け入れられなかった奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)の魂がさまようさまが胸に迫る。この3人がからむラストシーンは必見だ。登場人物の所作にはすべて意味があるので読み取ってほしい。
アメナーバル監督が「真理」をめぐってラストシーンに込めたメッセージは重い。ひとことでいえば、「知る」という営みの受難の歴史である。監督は、ヒュパティアと図書館の受難に象徴的な意味を持たせているが、映画を見終わってから、たとえば、いま中東で起きている革命とは何なのか(アレキサンドリアは、エジプト革命の鍵を握ったと見られる「ムスリム同胞団」の拠点とされている)、そして、日本ではほとんど報じられていないが、ウィキリークスと主宰者ジュリアン・アサンジュを、各国がなぜこれほど危険視するのか、改めて考えてみるのも一興だろう。この映画が突きつけているものは、決して歴史上の「おはなし」ではなく、私たちと無縁のものでもないのだ。
ところで、この映画では膨大な考証をもとにローマ時代のアレクサンドリアのにぎわいやローマ帝国時代の生活を、実にリアルに再現している。まるで自分がアレクサンドリアにいるかのようなリアリティがある。ステディカム撮影で手持ちカメラ風にアレクサンドリアの街の奥深くに入っていくカメラワークは歴史ドラマとしては新鮮で、後半の戦闘シーンの迫力を増している。
さらに、ヤマザキマリの風呂マンガ『テルマエ・ロマエ』を読んでから見ると、何をしているのかわかるシーンがいくつかあるだろう。筆者は、トイレにしゃがむ人のカットを見つけて楽しかった。そう考えると、この映画をローマ人が見れば、懐かしい『三丁目の夕日』と見ることもできなくはないかもしれない(そんなばかな)。
〔映画『アレクサンドリア』、3月5日(土)から丸の内ピカデリー・新宿ピカデリー・なんばパークスシネマなどでロードショー〕
何の変哲もない神社だ。
しかし、サブプライム問題がらみのちょっとした事件を追っている記者としては、急ブレーキを踏んで車を止めざるを得なかったのである。
世界金融危機の引き金になった証券化商品の再保険商品CDSなどの破綻。それはタックスヘブンの島、ケイマン島に本社を置くペーパーカンパニーが多数発行していた。
新しい金融資本民族の台頭は世界を席巻し金融バブルを巻き起こしたが、すぐ世界を恐怖のどん底にたたき落とした。ユダヤ人に次ぐ世界金融を牛耳る民族とされた新しい勢力とは。
ケイマン人である。
「世界金融危機の元凶はケイマン人」といわれるゆえんである。
驚いたことに、その精神的支柱は日本のパワーゾーン富士山にほど近い、静岡県島田市にあったのだ。
なんということであろう、秘密結社の時代から金融関係者の秘義としてひそかな信仰を集めてきたケイマン神はここ日本にいたのだ。
この驚くべき発見をした記者は、興奮のあまりに犬の糞を踏んでいた。ふたたび車に乗って走り出し、車内に臭気が充満するまで全く気付かなかった。最後の写真の左下にはその糞が写っており、既に記者の左足によって踏まれている。
さすがケイマン神社、「最後にはババ(クズCDS)をつかまされる」というご託宣である。
犬の散歩のときには、必ず糞は持ち帰りましょう。
豆知識●ビジネスホテルの洗面所にあるとても安物の歯ブラシをバカにしないで貰っておくと、靴の裏や車のカーペットについた犬の糞を掃除するときにとても便利です。ドラッグストアで台所消毒用のアルコールを買い求めて一緒に使うと完璧です。
10月29日、「カメラ交換式カメラ」リコーGXRの4つ目のカメラユニット、2本目のAPS-Cフォーマット単焦点レンズを装着した「GR LENS28mm」が発売される。
9日に行われたGRDigital5周年のイベント「GR PARTY」でサンプルが展示されていたので、私も少し操作してみた。先行した「GR LENS A12 50mm」に比べ、AF動作を含めてキビキビしている印象がある。また、50mmよりもレンズが薄型になっており、バランス的にも持った感じもよいと思った。
別の機会に、GR LENS28mmで撮った作例をじっくり見る機会があった。
はっきり言って驚きだ。
絵に「コクがある」のである。
雲の質感描写、紫色や緑の発色が素晴らしいのだ。
コンパクトデジカメがよくやるように、彩度を上げて一見鮮やかに見せたり、シャープネスを上げたりしているのではない。いうならば、コダクロームやフジのベルビアのような、化学的に発色させているようなコク。デジカメでたとえるならば、FOVEON素子を使っているシグマの一連のカメラの発色と、似ているとはいえないのだけれど、方向性は似ているような気もする。
今回、カメラユニット「GR LENS28mm」は、画素数は1200万画素で据え置かれた。また、今回はGRDigitalのウリでもあるマクロ機能の搭載が省かれている。デジタルカメラの世界は高画素競争が激しく、最近こそ高止まり感が出て反省の機運もあるが、やはり店頭では数が多いほうが有利に見える。しかし、GR LENS28mmでは、それにあえて背を向けているかっこうだ。もし、それが画質を練り込むためのトレードオフだとしたら、大成功だといわざるを得ない。GRDigitalと全く違う世界がGR LENS28mmにはある。
正直ここのところGXRへの関心が薄れていたのだが、強烈に欲しいと思う。
私は取材旅行にはニコンのD300を持参しており、書籍などの印刷物に使う写真を撮るという目的には充分なのだが、大きさと重さが負担になることも間々ある。受光素子がレンズと一体になっているのはGXRしかない。レンズ交換に埃を気にする必要がない唯一のフィールドカメラとして、GXRが欲しい。
ああ、GXRが買える程度にお金もうけをしたいものである。
テルマエ・ロマエはなぜ面白いのか。
それは、「王様は裸だ」と言っているからである。
なるほど、風呂マンガだけに裸。
「王様」とは作中に出てくる男色のハドリアヌス帝の事ではない。
われわれ現代人のことなのである。
テルマエ・ロマエのストーリーとしての構造はひとつしかない。
古代ローマの浴場技師ルシウスが、なぜか現代の日本にタイムスリップしてきて、日本の風呂に関する文化を吸収してタイムスリップして帰っていき、それを古代ローマで再現して絶賛を浴びるという話だ。
作者ヤマザキマリは、この実に単純なパターンを繰り返していく。なぜなのか。
平凡な漫画家であれば、この作品は別のパターンになるだろう。
現代の日本人がローマ帝国に突然タイムスリップしてしまう。そして、戸惑いながらも「風呂が好き」という共通点を生かして古代ローマに日本風の風呂や温泉を作り、喝采を浴びる。
そして現代、ローマの遺跡が発掘されると「ケロリン」などと書かれた風呂桶が出てくる。そんな話。
「戦国自衛隊」なんかがそうだ。
はたしてそういうマンガが連載になるか疑問だ。少なくとも、「バクマン」のサイコーとシュージンなら、そんな話は作らないだろう。
ところが作者はそうしなかった。古代ローマからルシウスを現代に寄越したのである。
「テルマエ・ロマエ」は、このようにわざと視点を倒錯させて、ローマ人から現代日本を見ることで、逆にわれわれのものの見方、とりわけ歴史観を試している途方もないマンガなのだ。
ルシウスの視点とは、実はわれわれ現代人の視点と同じだ。
彼は現代日本にタイムスリップしてきて、古代ローマ人の「思い込み」から日本の風呂文化を解釈して驚いたり納得したりする。それはしばしば本質からずれている。ここがこのマンガの笑わせどころ(「真剣な笑い」については『バクマン』10巻も参照)なのだが、これこそわれわれが歴史に向かう視点と同じなのである。
発掘やその分析、当時残された文献の調査、近現代史においては圧倒的に多くなった資料の渉猟と生存している関係者からの聞き取り。そういうファクトを積み上げて、そしてそれを解釈して歴史はできあがっている。
要するに、「こんなもの」として。
そこには現代に生きるわれわれの思い込みが入っており、現代人の視野に限界があることをわれわれはわかっていない。事実がゆがめられて解釈されることがないとはたしていえるだろうか。いわゆる「歴史認識」など、その最たるものではないだろうか。
ルシウスは日本の風呂文化の本質を完全に理解してはいない。ルシウスは日本の風呂や温泉にある珍しいものをローマに持ち帰って移植し、成功してしまう。何か風呂の設計で詰まると都合よくタイムスリップして風呂文化の表層を持ち帰ることができる。ルシウスはローマで認められてどんどん出世し、皇帝おかかえの技師にまで登りつめるのだ。しかし、本質はつかめていないままだ。
われわれも同じである。
現代人のわれわれは、「王様」として振る舞っている。
現代の視点から過去の歴史を見て、合理的かそうでないかを裁いている。
歴史とはそういうものであり、それ自体が間違いであるとは思わない。しかし、われわれは「現代人」としての思い込みからそれを見ているに過ぎない。
イタリアで絵画修復を修め、イタリア人の歴史学者を夫にもつ作者の狙いは、「王様は裸だ」ということで、われわれの歴史観にゆさぶりをかけることこそにあるのではないか、という気がしてならない。つまり、「テルマエ・ロマエ」は「逆・ローマ人の物語」なのである。
ルシウスは、タイムスリップした日本での風呂体験を自分は完全に理解していないのではないか、と毎回悩む。そして、日本から持ち帰った風呂アイテムをローマに再現してハドリアヌス帝はじめローマ人たちから絶賛を浴びても、それは自分のアイデアではないと後ろめたさを感じているのだ。
われわれにはその謙虚さがない。それだけルシウスのほうが賢い。
大江戸線に乗っていて、ふと網棚上の広告を見て心底驚いた。
まだやっていたのか。
「インパク」がわからない若い人はこちら。
森喜朗首相が湯飲み片手に「面白いですよう」と上目遣いにこちらを見たCM。
いま思えば、検索という観点からは圧倒的にノイズが多くなってよろしくない「インパク」という名称。
経企庁長官のとき、「不景気だというが、好調な業種がふたつある。百円ショップとマンガ喫茶だ。見習わなければ」と、中国の安い労働力依存とマンガが売れないひとつの原因を称揚し、自らの株を大暴落させた堺屋太一。
そして糸井重里。
だれもいないインパク。
だいたい俺は、インパクのコンテンツを結局見たんだっけ、見なかったんだっけ。それすらも覚えていない。
それが10年後の現在もまだ続いていたとはショックだ。
しかも「大江戸インパク」。
これは石原都政の最後っ屁なのか?
しかし。
ふと思い直して広告をずらしたところ、正しい文字が現れたのだった。
やれやれ。
インタビューの旅に出た。
もうかれこれ2年半通っている相手である。
■アタッシェケース本体
奥左の四角い革ケース
SONYのPCM-D50というICレコーダー。音楽用なので巨大。しかし音質は抜群。
その手前乳白色ケース
2L判の写真アルバム。写真を見ながら話を聞くため。
右側奥黒いペンケース
万年筆(パイロット・エラボー中字)とボールペン類。話を聞きながらのメモは、書くことを意識させない万年筆がよい。ノートパソコンを使う同業者が多いが、操作に気を取られてコミュニケーションに難が出るのがいやなので、私は使わない。
ボールペンはゲルタイプのもの。赤必携。青と緑はノート整理用。
測量野帳
フィールドノート。外でのとっさのメモや、電車の時間などをメモする段取りノートとしても使う。
キャンパスノート
本当はリング綴じのコクヨ ス-10Nを愛用しているのだが、切らしてコンビニで買ったもの。図を描いて相手に見せたりすることもあるのでB5ノートは便利。リング式だと見開きも片面開きも体勢によって自在なので、さらに便利。
キャンパスノートの下
iPad。今回、取材資料のまとめに超便利であった。別記事で。
手前
財布。中身が寂しい。
アタッシェケース蓋側
手前ポケット
iPhone
ファスナーケースの中
USBメモリとE-mobile Pocket Wi-fi。今回は「圏外」が多かった。
奥ポケット
インタビュー用レジュメ、時刻表など。
茶封筒に入れたA4判に引き伸ばした写真。
アタッシェケース手前
タオル。今日の仕事が終わったら、公共の日帰り温泉に入ろうというもくろみ(笑)。
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